「ジェンダーフリー」から「ジェンダーライツ」へ featuring 筒井真樹子さん

 こんにちは、みなさま。今日は筒井真樹子さんをお招きして先日行ったチャットを掲載します。筒井さんはもと男性のジェンダークィアとして主にウェブと活字で情報発信を行っておられ、『同性パートナー』(社会批評社)、『トランスジェンダリズム宣言』(社会批評社)の共著書があります。ジェンダーフリーの功罪、あるいはジェンダーフリーの救済は可能かという話題で macska と chiki を含む3人でお話してみました。

macska:
 こんにちは。今日は筒井真樹子(以下 makiko)さんにゲストとして参加していただいています。わたしとしては、特にジェンフリ関係ではバックラッシュ側の無茶苦茶なデマを否定したり、定義の過ちを指摘するだけでエネルギーを使い果たしてしまって、ポジティヴに何かを主張していくということができなくなってしまった気がします。そういう時に、ブログのコメント欄等で makiko さんがいろいろと厳しく指摘してくださるのがきいたなと(笑) そういうわけで、makiko さんをお呼びして一度じっくり話を聞いてみたいと思いました。


makiko:
 全くその通りだと思います。というか、今までのフェミやクィアの運動も、このような状況の中で「守り」に入ってしまっているようで。


macska:
 それと同時に、フェミニストの一部が行政に入り込むということはこれまでなかったので、そうなった時にどう振る舞うかというのをこれまで考えてこなかったということもありますね。それは、バックラッシュがあってもなくてもいずれ考えなくてはいけないことなので、いま考えることになったのは必ずしも無駄ではない


chiki:
 そうですね。フェミニズムが外部の観客や批判の視線を意識しながら自己吟味することは重要ではないかと思います。


makiko:
 え? いきなりその論点に行ってしまうの? まあ、確かに、2chなんか見ていると、いわゆるバックラッシュネットウヨと呼ばれる人に、行政主導の男女共同参画に対する不信感を見て取れるのは確かですけど。


macska:
 フェミニズムに不信を抱くというのは、行政に関与していようといまいとそうなったでしょう。現に、行政と全然関係のない人も叩かれてますし。それはバックラッシュ側の問題として、フェミニストたち自身の問題というのはあるわけで。


makiko:
 とりあえず、ここの3人が「ジェンダーフリー」に対して、今現在どういう立場にたっているかを明らかにしませんか?


macska:
 そうですね。わたしは英語圏の人間なので、「ジェンダーフリー」という言葉には人種差別論で言う「カラーブラインド」のような現実を見ない理論であるかのような印象をどうしても感じてしまうんですが、実際に推進している人の言うことを聞いてみれば、そんなことはない。
 makikoさんもご存知のように、わたしはセクシズムとジェンダリズムを概念的に分けて考えたりするわけですが、そのうちジェンダリズムに抵抗する論理がジェンダーフリーなのだと言われれば、それは良いことだと思います。ただ、セクシズムへの抵抗と同時でなければ行けないと思うので、男女平等とジェンダーフリーはどちらがいいかというのでなく、どちらも同時に必要だと思います。


makiko:
 「ジェンダリズムに抵抗する論理がジェンダーフリー」という部分をkwsk


macska:
 セクシズムというのは、人間の性を「男性」と「女性」に分けて、前者を標準として位置づける仕組みですね。それに対して、ジェンダリズムとは性役割ジェンダープレゼンテーションの次元ではたらく規範です。
 女性の立場からすれば、両者は全く同じ方向にはたらくわけで、フェミニズムでは両者をあんまり区別しません。すると、男性だってジェンダリズムを経験すると反論された時点でセクシズムまでなかったことにされてしまったりします。セクシズムとジェンダリズムはお互いを補強しあう関係にあるわけですが、どちらか一方を追求する論理だけでは不十分だと思うんです。


makiko:
 私は、そろそろ「ジェンダーフリージェンダーレスで何が悪い?」という開き直りをした方がよいかな、と思いまして、いやトランスジェンダーとかそういうところをあまり強調するつもりはないのですけど、性別にアイデンティティをもつことは本当に必要なのか?、ということについて疑問をもっています。すなわち、性別の自己決定というけれど、男か女か、あるいはサードジェンダーでもいいのですけど、どこかに場所を決めてしまわなければならないのはわたし的にはかなりしんどいので。
 ただ、ここで言いたいのは、個人の生き方レベルの問題ではなくて、文化のレベル、社会制度のレベルでそういうものを要求するのを、そろそろやめにすべきではないか、ということです。ジェンダーフリーに過去に期待し、今もしているのはそんなところです。


macska:
 ジェンダーフリーが「ジェンダーレスではなくジェンダーの自由」だとする意見に対し、あるバックラッシュ論者が「自由になったものはもはやジェンダーではない、すなわちジェンダーの自由はジェンダーレスと同義だ」と言っているんですが、それは実は正しいんではないかと思ったりします。そういう意味でジェンダーレスと言うなら、ジェンダーレスで何が悪いとわたしも言いたい。

 つまり、特定のジェンダー的振る舞いを禁止するとか奨励するというのではなく、ジェンダージェンダーたらしめている規範性を撤廃するのであれば、今の社会でジェンダーと呼ばれる振る舞いは残ってもそれはジェンダーと認識されなくなる、ということですね。そういう意味のジェンダーレスなら、堂々と主張すべきだと。


makiko:
 ではジェンダーフリーは性差の否定か否か、という論点があって、ジェンフリ派は性差そのものの否定ではない、ということを言ったりしますけど(これ自体、わたしはかなり問題のあるフレーズだと思いますけど)、これに対してバックラッシュ派の人は、ジェンダーフリーは必然的に性差の否定に結びつく、と言ってきたりするあれですね。


chiki:
 無論、必然的に性差否定の実践、例えば男女同室着替えなどに結びつくというレベルのものと、概念設定のレベルの差はずいぶんありますよね。


makiko:
 ただ、そもそもジェンダーフリーは性差の否定か、という論点も、既存のジェンダーと異なるジェンダー体系そのものを認めるか、という問題と、ジェンダー規範にどこまで強制力を認めるか、という問題があるような気がします。まあ、保守派の人からすると、この二つは特に区別する意味はないのですけど(笑)


chiki:
 当事者にすれば大変な意味をもちますけどね(笑)


makiko:
 ただ、もちろん私も公権力がさまざまなジェンダー文化(大峰山修験道みたいなものも含めて)を禁圧する形で、性差の否定を唱道することには、私は反対です。まあ、政教分離と同じで、公権力が特定のジェンダー観と結びつくことはあってはならないという意味では、公権力はジェンダーフリーでなければならないと思いますが。


macska:
 makiko さんは、具体的に公的書類からの性別欄の撤廃を、「性同一性障害の人がアウトされないため」ではなく別の理由で働きかけていますよね


makiko:
 性別欄の撤廃については、GIDの人は、戸籍の性別変更ができない時代に、法律上の性別が見られてしまうことを避けるために、性別欄をなくすべきだ、と言っていたのですけど(そして案の定、戸籍変更ができるようになると、誰もやらなくなってしまいましたけどw)、わたしは公権力が性別を公証すること自体が、性別の多様性を侵害するのではないか?、ということを言ってきました。chiki さんのお立場は?


chiki:
 「成城トランスカレッジ」の過去のエントリーをみていただければお分かりいただけると思うんですが、私は「ジェンダーフリー」という言葉を、一連の騒動について吟味するとき以外は用いていないんですね。しかも積極的に擁護したこともない。もちろん、まとめサイトがある種の「情報戦」ないし「象徴闘争」においてどのように機能するかはある程度自覚的で、あのサイトはジェンダーフリーに反対する言説のほとんどが流言飛語や低レベルなものだから再整理が必要だよね、というスタンスであるため、それが不当なバッシングから「ジェンダーフリー」という言葉を結果的に擁護するというパフォーマンスとして機能することはある。つまり、多くの人がデマを信じればジェンダーフリーに不利だというのはわかっていながら、「フェミニス党」のようなものが暗躍して亡国へ導こうとしているのだケシカラン!という類のオカルト言説について「嗤」えるためのリテラシーを多くの方に身に着けていただこうとしているわけです。

 もちろん個人的には、そういうバッシング言説が別の様々なバッシングや差別と親和性を持っていると思うがゆえに、そういうものを批判するというのはあります。ただ、私はフェミニストではないし、ジェンダーフリー論者でもない。また、フェミニズムについても、文学理論、テクスト理論について学ぶ課程である種のリテラシーの一環として身につけた程度で――一般の方よりは存じ上げているつもりですが――フェミニズムの運動史や学史自体にはそれほど深く存じ上げているわけでもない。だからあえて立ち位置を規定するなら、メディア論的なアプローチしているブロガーってことになるのかもしれない。

 これがたぶんこの議論に対する私の距離のとり方なんですが、では「ジェンダーフリー」概念に対する評価はどうかというと、これまた微妙です。「ジェンダーフリー」というこの言葉はかなり多義的なニュアンスを持つ言葉で、基本的にはスローガン的なものだと思うんですよね。非常に文脈依存性が高い。だから、言葉自体の価値評価は難しく、常に条件付で反対(賛成)したいと思っています。

 例えばこの言葉の起源が問題となったり、英語圏での意味が問題となったりした場合、そこには言葉自体がもつ自発性、ある種の自己生成のようなものが見落とされることが多いと思うため、その文脈での言葉自体の評価というのはあまり意味を持たないのではないかと思っています。ただ一方で、この言葉が自発性をもてるような「場」、例えばこの言葉によってある種のポジティブな理念を形成できる「当事者」が不透明なので、同様に賛成することも難しい。つまり、この言葉自体を係争の対象にするロジックのほとんどには反対ですが、なんのために賛成するかというビジョンが非常に見えづらいんですよね。もちろん多様な性=生の肯定という大文字の理念については賛成、というか大前提だと思っているんですが、その各論やパフォーマンスについては疑問の余地がある。だからこそ「バックラッシュ」を吟味しつつ、ポジティブな意味づけが可能である「場」を再発見できれば、という「条件」付で賛成になると思います。いくつか可能性のある言葉ではあると思いますしね。あ、今「係争」って言っちゃいましたけど、訂正します。当事者がほとんど不在だと思っているので、「係争」ではなく「論争」あるいは「騒動」ですね。ぶっちゃけて言えば、この議論でデマを中和したその先で「ジェンダーフリー派」が議論に勝つことで何が得られるのかがわからないし。


makiko:
 ということは、この3人の中で、ワタシが一番のジェンフリ推進論者というわけか(笑)。ただ、「『当事者』が不透明」と chiki さんが言われるのは全くその通りで、「女性」が「ジェンダーフリー」から利益を受ける立場にあったかというのもあいまいだし、ましてやトランスジェンダーや性的マイノリティが積極的に当事者として発言していたわけでもない。むしろ、「女性」も女性との立場を前提にする人が主流を占めていたように思うし(だからこそ今になってジェンフリは不要で、男女平等と言えばそれで済んだ、みたいな発言が出てくるわけで)、性的マイノリティも、消極的な無関心か、あるいは性同一性障害ジェンダーフリーは相反するという発言すらあった、ということです。


macska:
 ジェンダーフリーというのは、本当にいろいろな意味で解釈されてしまっていますよね。一番最初の、東京女性財団の定義だと、イヤな感じ。


chiki:
 イヤですね。私も東京女性財団の報告書を読んだんですけど、山口さんが指摘していないところで、すんごく嫌な書き込みがたくさんある。


macska:
 東京女性財団によると、「従来用いられてきた『男女平等』は主として制度的側面に用いられる用語であるが、予備調査によれば『ジェンダー・フリー』は、男女平等をもたらすような、人々の意識や態度的側面を指す語として、若い人々にも受け入れられそうである。とくに学校のように、おおむね男女平等な扱いが行き渡っている集団でも、今後は、さらに教師や子どもの意識に踏み込んで、『ジェンダー・フリーな教育』の場であることを目指すべきであろう。」と書いてある。いったいどういう予備調査したんだよ(笑)


chiki:
 「法律や制度を見ても、形の上での男女平等は次第に整ってきている。ごく最近の社会的な動きをとってみても、嫡出子と非嫡出子との区別は住民票上から消滅したし、結婚に伴う男女別姓制度も検討されている。しかし職場や家庭内に目を転じれば、そこには性別に限らず、さまざまな地位に伴う役割上の不公平が、文化や慣習の形で十分に残っている」とかね。
 しかもパンフの中で「ジェンダーレスではないか」ってQ&Aを既にロールプレイングしているんですよね。「ジェンダー・フリーだと、どうしても人間が中性になっていく気がするんですが。だって、逐語訳すれば、「性別からの自由」じゃないですか。」という疑問に対して「中性のすすめじゃありませんよ。性別の間にある「垣根」の高さを、もっと低くして、風通しをよくしませんか、っていう提案なんですが……欧米には、性別によって生き方を制限されることなく、男女がもっと自由に暮らしている社会が、沢山あるじゃないですか」「ジェンダー・フリーは、人々の行動を不自由なもの、不幸せなものにしてしまう「ネガティブな意識や行動」からの「フリー」を指す言葉であって「男女の魅力的でポジティブな特徴」についてのフリーではない」って書いてる。「欧米には」とか「魅力的」とかっていう言葉にもひっかかるけど、そもそもそこまで想定していながらなんでわざわざ使うんだよ、と(笑)


macska:
 まあまあ、これ以上やるとジェンフリバッシングになっちゃうからやめましょう(笑) とにかく最初はそういうちょっとおかしな感じがあったんだけど、使用されるにつれていろいろと広がりがでてきたことは事実です。


makiko:
 悪く言えば意味が拡散したということにもなりますが(苦笑)


macska:
 その中で特筆すべきこととして、LGBT に関する教育が「ジェンダーフリー」の看板の中で可能になったという一面もあるわけで、それは肯定的に評価できることです。


makiko:
 うんうん。


macska:
 それを「男女平等に戻そう」ということになると、後退してしまう面がある。


makiko:
 そうなんです。私もそれを懸念しているわけで。ジェンダーフリーを最広義に解釈すると、ジェンダーセクシュアリティのあらゆる既存の規範からフリーになって、個人ひとりひとりの自分らしい生き方(ま、この言い回し自体には結構鳥肌がたちますけど(笑))をみつけよう、というのがあって、その中にゲイやレズビアンバイセクシュアルみたいな性的指向の問題や、トランスジェンダーなどの性別表現の問題も紛れ込ませることができた、ということですね。実際、こういう言い方は、ものすごく便利だったことは実感としてあるわけで。


chiki:
 そうですね。


macska:
 はい。いまや、能天気にジェンダーフリーとは言えないようにはなりましたね。ここでいうジェンダーフリーとはこういう意味ですとわざわざ注意を付けなくちゃいけないとか。


makiko:
 それが知らず知らずのうちに自己規制に繋がっているということはあると思う。


chiki:
 議論の過程を経てよくもわるくも「客」を見るようになったし、その「客」の変化も感じさせられる面はあるのかもね。


makiko:
 なるほど。


macska:
 「ジェンダーフリーを自分は積極的に推進してきたわけではないけれど」と言い訳している自分がいる(笑)


chiki:
 事実なんだけどね(笑)


macska:
 事実なんだけど、上野さんどころか伊田さんまでそんな事言ってるし。


chiki:
 イダさんも?


makiko:
 ま、イダと同類だと思われたくないという意味では私も(笑)


macska:
 伊田さんって、ジェンダーフリーを著書のタイトルにつけてるのよ。それなのに、自分は積極的に使ってきたわけではないと。


chiki:
 上野さんだってタイトルにつけてるよ。ただ、編集部による前分を読む限り、あれは編集部が勝手につけたのかなと思うけど。今回の本も編集部で決めたわけだし、あらかじめ決めていたわけではない。


makiko:
 そのうしろめたさみたいなものって何だろう?


macska:
 えっと、うしろめたさとは違うかもしれないけれど、山口さんが書いているように、95年以前から草の根運動をやっていた人は、行政が進出してきて押し潰されたという感覚があるみたいですね。


makiko:
 2chネットウヨだけでなくグラスルートなフェミの人もということで。


macska:
 行政が進出するときに、「女性」「平等」というキーワードが外されて、「男女共同参画」とか「ジェンダー」というキーワードに置き換えられた、というのは米国にもある話で、よくわかります。


makiko:
 それによって「女性」の発言力が弱められた、ということですね。


macska:
 草の根運動をやっていた女性から、女性学者やエキスパートに発言権が移動したと言えるかな。草の根運動の中にも男性はいたけれど、それはあくまで女性運動であった。でもジェンダー問題のエキスパートとなると、「女性」とか「フェミニスト」と無関係でも成り立つわけで。一番厄介なのが、フェミニズムとも草の根女性運動とも無関係の女性「エキスパート」。


chiki:
 ふむ。ある意味では社会機能が分化していったともいえるのかな。


macska:
 プロフェッショナルにとってかわられたと思います。米国で一番プロフェッショナルに発言権が移行したのがドメスティックバイオレンス関係で、なぜかと言えば職になるから。膨大な数のシェルターが作られ、巨額の予算が組まれると、プロフェッショナルが仕切るようになる。


makiko:
 笑ってられない。でも一方で、80〜90年代の情勢をみると、メンズリブや性的マイノリティが顕在化して、「女性」だけの問題でなくなってきたのも確かで。


macska:
 いま makiko さんが言ったことは大切だと思うんだけど、90年代中盤からの行政フェミの勃興で、草の根フェミの側はやられたという歴史観を持っている。でもそれと同時に、別の分野ではいろいろと進歩してたりして、メンズリブとかセクシュアルマイノリティの運動が80〜90年代に顕在化するとき、行政とのタイアップみたいな形で出てきたところもあるし、タイアップとまでいかなくても、女性センターみたいな施設の恩恵を受けている。行政フェミが悪いで済む話でもない。


makiko:
 これはトランスジェンダーでも同じようなことが言えますね。90年代初頭に、女性団体や、ゲイレズビアンの団体と結びついて地道にやっていたところや、あるいはニューハーフや女装のコミュニティなんかがあったけれども、性同一性障害になってから、医療の専門家と、そこに結びついた一部の特権的な当事者が発言力をもつようになった歴史がありますから、気持ち的にはわかるんです。


macska:
 似てますね。


makiko:
 ということは2000年代になって、GID概念の普及に伴って、行政の側が性的マイノリティを取り込もうとしていく動きに、われわれは何も疑わずに賛同してきたわけだけど、そろそろそれにも疑いを投げかける作業が必要なのかもしれない、という感じもしています。


macska:
 トランスジェンダリズム宣言したはずの人が次々と GID と自己規定してしまうし(笑) その点、わたしは makiko さんこそ日本の Riki Wilchins と思って期待してますから。


makiko:
 ありがとん。


macska:
 さて、本題に戻したいのですが、ジェンダーフリーの発展的救済は可能でしょうか?


chiki

 私は可能だと思いますけど、相応の手順が必要だと思いますね。例えば一度多くの人に忘れてもってから再発見するとか(笑)


makiko

 それとも関連しますが、私はサブカルチャーとしてやるしかないかな、と思います。だから、行政や専門家主導でやるのでなく、主流の文化でない文化として、オルタナティヴな文化を提示していく必要があるかと。


macska:
 なるほど。それはジェンダーフリーを名乗るんですか?


makiko:
 うーん、あえてそう名乗る必要もないのかも(笑)


macska:
 (笑)


chiki:
 さっき、冗談めかして「一度忘れてもらう」って言いましたけど、それじゃああまりにアレなのでちょいとマジメに補足を(笑)。私は、イラク人質事件の時から枕詞と修飾語のポリティクスみたいなのが常に気に掛かってます。例えば「テロ」といったら「断固として戦う」みたいなワンフレーズがセットとしてできてしまい、テロが生まれる通史的、文化的、政治的、経済的背景のようなものに対する思考回路が閉じられてしまうことってありますよね。コミュニケーション自体が膠着状態に陥ってしまう、あるいは上流から下流に水が流れていくようにイージーな方へと議論全体がカスケードしやすい状態というものに対しては慎重に接しないと、という気持ちがあるんですよ。それと同様に、「ジェンダーフリー」も「過激な」とか「ヒステリックな」みたいな意味をコノテーションをひきつけてしまっているから、そこを再構築する作業をしないと難しいと思うんですよね。

 サブカルといえば、例えば http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060217/p1 とかみても、サブカルのほとんどは俗情に対して非常に素直なので(笑)、逆にその辺で別の回路を開いていくことは意味があったり、あるいはローカルなところで別の意味づけを強めていくというのはいいと思います。そうそう、あのまとめサイト、なぜかしらないけど腐女子の人からのリンクが結構多いんですよ。見てみたら「参考資料」というリンクに加えられていたりして(爆)。まあ、BLの消費が果たしてゆるやかなゲイ肯定につながるか否かという議論もあると思うので、そこに大きな可能性をみるというようなことは考えていませんが、しかし言葉自体には再利用の可能性は常に開けていると思います。


makiko:
 ケイト・ボーンスタインという人は、劇作家ですけど、最初からそういう路線ですね。クィア文化という考え方がジェンフリみたいなものとは別にあって、主流の文化とは別の性別観をもつクィア文化という位置づけをしている。ただ別に新たに立ち上げる必要はないわけで、既存のものを読み解く作業でもよいわけで、コミケというのは面白いと思います。あるいはネット上の現象でもよいのですけど


macska:
 では、ジェンダーフリーを越えた今後のセクシュアルマイノリティフェミニズムの繋がり方について。「男女平等」に後戻りするということは、偶然とはいえせっかくできた繋がりを断ち切ることになってしまう。


chiki:
 重要なポイントですよね。今回の本ではあまりフォローできていないところがあるかもしれないので、しっかり考えたいです。


macska:
 わたしは「ジェンダーフリー」という言葉そのものにそれほど守るべき価値を感じないのだけれど、「男女平等で十分」という言説はおかしい。
 ただ、フェミ内部で「男女平等では不十分だ」と言ってきた人たちが根拠としてきた事は、「男女平等」というのは、男女特性論をベースとした separate but equal の主張を許容するから不十分なんだ、という論理だった。


makiko:
 うんうん。


macska:
 それに対し山口さんらは、女性運動で「男女平等」という言葉が使われるとき、それは男女特性論を容認するようなものではなかったはずであり、どうして今になって「男女平等では駄目」だというのか、と反論してきた。
 でも makiko さんが「男女平等では不十分」というのは、それとは違った論点ですよね。


makiko:
 はい。私は LGBTI それぞれの問題も、何らかの形でジェンダーの問題と関わっていると考えていて(もちろん、すべてがジェンダーの問題に還元できる、という意味ではないので念のため)、さらには「男性」「女性」の中にも無数の差異が存在することに今更目をつむるわけにもいかないので、昔風の男女平等ではもはや今日的な諸問題には対応できない、と考えるからです。


macska:
 そうですね、わたしもそう思います。特に2番目の点はフェミの人たちによく考えて欲しいんですが(悲)
 LGBTIの問題はジェンダーの問題に関連するけれど、ジェンダーの問題だけに還元できるわけではない。いわゆる「女性差別」問題も、先に述べたようにジェンダリズムだけの問題として扱うことはできないという意味では同じです。
 今後、LGBT の運動と女性運動はどのような関係を築いていくべきだと思いますか? LGBT の運動と一言でいっても、LG の運動と T の運動は違ったりするし、T の運動と GID の運動はどう繋がるのかという問題があったりと、いろいろですが。


makiko:
 例えば同性例えば同性パートナーシップの問題も、パートナーシップや家族制度について、フェミニストの方々がさんざん議論してきたものと無関係にいるわけにはいかないわけで、単に同性愛者の婚姻の権利という形にされるのは、納得がいかない。今では、フェミの中にも、同性愛者の問題は同性愛者でやってください、という人もいるようですけど。基本的には個別の政策協定ということになると思います。ただそのような関係をとりもつ場を、どう作っていくかという問題が先決で、その意味でジェンダーフリーという枠組みは、行政主導でつくられたとはいえ非常に便利だったのですが、今はその場所が崩壊しかけている。おそらく、全く別のスキームが必要になってきているのだと思います。
 ただ、その場合、「ジェンダーフリー」や「男女平等」みたいな大文字の旗印を掲げるのではなく、個々人や個々のマイノリティセクタが抱えている、それぞれのジェンダーイシューを丁寧に扱って行きましょうという意味で、「ジェンダーライツ」(複数形というところがミソですね)を求める連帯、というような枠組みをつくっていく必要があるかと思います。


macska:
 なるほど。最初、個別の政策協定といったところでちょっと心配になりました。というのも、個別に利害が一致したときだけということになると、シングルイシューの運動をやるのと同じことになってしまいます。でも、そこにジェンダーライツという視点を置くのであれば、広がりのある連帯になりうるなと思いました。ある人のジェンダーライツが侵害されたとして、そのこと自体は他のグループには直接の利害がない話かもしれない。でも、ジェンダーライツを確立することがみんなの利益になるんだという共通認識があれば、そういう場合にも支援できますね。


makiko:
 今気になっているのは、男性である特権に十分に浴せていない男性のことで、バックラッシュネットウヨの温床になっているのは、このような層だと思うんですね。こういう層が、かれらが新たな特権層と見ている「勝ち組」女性の進出の背後にある、男女共同参画政策に対する感情的な反発につながっているわけで。
 むしろ、そういった層にも、自分たちを縛っているのは男性ジェンダーの問題であって、ジェンダーという考え方から見ると女性との利害対立は見掛けのものにすぎない、ということを、わかりやすく魅力的な言葉でアプローチすることが必要か、とも考えています。


chiki

 なるほど―。macskaさんのジェンダーライツの確立ということですが、他のグループの損失が自らも属するパブリックの損失になるんだ、という意識の構築は可能なのかという問いがありますよね。とりわけ「男女平等」の側――大雑把なわけ方ですが、特にマイノリティ性のようなものに対してセンシティブでなくてもそこそこやっていける層――がそのライツに自覚をもてるのか、という疑問を立てられるのではないかと。月並みな議論ですが、実存と欲求、欲求と欲望、欲望と言説、言説と効果などがそれぞれ乖離していることが自明の状態、あるいは各プレイヤーが自らの利害に無関心、あるいは知ることができない状態では、利害を意識しつつ紐帯していくということ事態が成立しにくいともいえる。そこでは議論はおのずと専門家のものになり、専門家は各プレイヤーからは見えづらいものなので乖離がさらに推し進められるというような悪循環になるのかなぁと。


makiko:
 そこが難しい。


chiki:
 もちろん現実はかように極端な状態になっているわけではなく、もとより紐帯なるものが存在していたというわけではないので整理するためのパラフレーズに留めておきます。ただ、今makikoさんが指摘した、男性である特権――この境界すら自明ではなくなってきていると思いますが――に浴せない人たちがいた場合、その層のジェンダーライツと理論面でなく実践面で並存させるためには、諸パフォーマンスに対してのリテラシーが必要だと思うんですよね、どうしても。


makiko:
 おっしゃる通りです。今では特権とか権力関係というものが、相対化していますから。


chiki:
 昨今では、嗤いのモードと憂いのモードは基本的にコミュニケーションスタイルが違うんだということが繰り返し指摘されます。鈴木謙介さんも論文の中で、最初にモードの違いについて説明しつつ、彼ら=2ちゃん的バックラッシャーは基本的に立ち位置ゲームをしているのだけれど、そのゲームにオブセッシブになるのはむしろ多様性によって肯定されない人たちが存在するという前提から、だからこそ政策論の枠組みでしっかり議論しなくては、というところから思考しているように読めました。この構図自体をそのまま受け入れるわけではありませんが、こういう面はやっぱりあると思う。
 で、何度も繰り返しになって申し訳ないんですが、「バックラッシュ」という現象で「客」や舞台装置が露呈したのであれば、それらを効果的に見分けていかなくてはいけない。しかも、ある種のフレーズを編み出しなおすとか、何か効率的な理論を吟味するなどによる一発逆転などは無理だと徹底的に自覚した上で向き合わないといけない。ジェンダーライツという問いの場の構築それ自体、あるいは誘惑それ自体では既に議論がなりがたいので、ジェンダーライツという問いの場への魅惑といったことを含めて吟味する必要があるんだろうな、と思うわけです。これって当たり前のことですけど。ちなみに、ここで各ライツに自覚せよ、といったらとたんに間違えてしまうのでダメ(笑)


macska:
 そうですねー。


makiko:
 そうですね。まずは話をするという信頼関係すらない状態ですから。


chiki:
 ないっすね(笑)フェミニストがいうことは即疑え、的な固着状態の人も結構いて。前笑ったのは、ある法案に対して「朝日新聞が反対しているからきっといい法案だろう」といって賛成している人がいました。立ち位置系の末期状態(笑)。


makiko:
 それで思い出したけど、ジェンフリ論者も、ジェンダーというものはいけないいけないと言いつつ、じゃあどんな文化が良いのかをあまり提示して来なかったと言えるよね。


chiki:
 ジェンフリ論者の魅力的な誘惑がないということですけど、私、橋口亮輔監督の『ハッシュ!』という映画が大好きなんですよ。何度も見て、そのたびに一人でウェーブしてる(笑)。
 魅力的なテクストを指し示していくという人というのはいてほしいですよ。その橋口監督が参加したイベントのタイトルが「世界よ、追いついて来い! 変態上等!! まだ誤解してんの? ジェンダーフリー」で、すごいなと思ったんですが(笑)。


macska:
 すごいね、変態上等。


chiki:
 すごいよ(笑)


makiko:
 あれね(笑)


makiko:
 やはり2chとかで叩きやってる人は自己肯定の度合が凄く低いような気がしますね。そういうところを引き上げる何かが欲しいと思うのですが、ただそれだけだと精神論に堕ちてしまう。


macska:
 自己肯定の低さというのはすごく問題ですよね。


makiko:
 性別も同じで。


macska:
 各国比較で、日本は自己肯定度が飛び抜けて低いというデータを見ましたが。


chiki:
 ひくいねー。センのケイパビリティに関する議論でも日本は低く位置していたっけ。


macska:
 ケイパビリティの一部にはなるでしょうね。


makiko:
 うんうん。


macska:
 自己肯定感の異常な低さというのがあって、それが理由で排外的愛国主義にくっついたり、フェミバッシングとか嫌韓とかそういうのに行ったりする。
 まれにフェミに流れる人もいて、実存的に依存してくるので苦労するわけですが(笑)


makiko:
 ありますねー。
 そういう人はセパラティズムに走りやすい。


chiki:
 芸術、例えば音楽あたりに流れてくれるといいんだけどねー。


makiko:
 でもラップとか聞いていてコワイですよ(笑)


macska:
 フェミのラップとかあるけど、カッコ悪いんだよなー。


makiko:
 うんうん。内容ではなく、スタイルをまだ手にしていない。
 今あるその手の文化活動がどうしてつまらないか、というのはもっと真剣に考えなければいけないです。


macska:
 そうですねー。


chiki:
 その辺も議論になっている『バックラッシュ!』をみなさん買いましょう。


macska:
 というわけで、最後に何か一言、みたいなのありますか?


chiki:
 フェミニストは同人誌をコミケに出品しましょう。


makiko:
 いいかも。


chiki:
 (・∀・)賛同キタコレ!


macska:
 売れるの?


chiki:
 最初は50部でいいんすよ。だんだん島を抜けていけば(笑)


macska:
 てゆうかどんな同人誌なんだろう。わたしが作ったスピヴァクポルノとか?(笑)


chiki:
 安部×八木。


macska:
 そこは八木×安倍だと思う。


makiko:
 どんなんや?


chiki:
 安部「男女共同参画はゆるせないですね」
 八木「むしろ男と男の三角木馬がいいんだろ、ん?」
 安部「ひゃうんっ」
 八木「さあ、おれのY染色体を受け取れっ」
 安部「ああっ、英霊がみえるっ!」


makiko:
 (((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル


macska:
 というところで、そろそろ終わりにします。
 makiko さん、今日はどうもありがとうございましたー。


chiki:
 ありがとうございました。

 いかがでしたでしょうか? 明日日曜日はもちろん、本書『バックラッシュ!』プレゼント企画の2人目の当選者を発表します。さらに、注目のドギ獲得レースも続行中! 邪神デビューボに祈って幸運を授かろう!(ウソ)