「ジェンダーフリーは共産主義か?」
こんにちは、みなさま。今日は『バックラッシュ!』より論点「ジェンダーフリーは共産主義か?」をお届けします。つまらない論点ではありますが、正論や産経新聞などを見るとこの手の言説が未だに飛び交っているので要注意かもしれません。
ジェンダーフリーを批判する人は、なぜか「マルクス主義」「革命」「共産主義」といったフレーズを好んで使う。批判者の生い立ちを調べてみると、批判者自身が元左翼活動家だったりして、自分のリアリティを投影しているんだなぁということが分かって面白い。また、最近の保守雑誌や単行本を読んでいると、「左翼」がはびこっているというイメージを一生懸命盛り上げることでおこぼれに預かるというようなタイプの不安産業と化しているようで、ちょっとかわいそうな気がする。例えば西尾幹二は『新・国民の油断』(PHP、二〇〇五)のあとがきに次のようなことを書いている。
(「ジェンダーフリー」「過激な性教育」は)規模といい、巧妙な計画性といい、根が深く、決してただごとではない。特定の政治勢力が背後にあって、しかも、それがいままでのような反体制・反政府ではなく、「男女共同参画社会」というよく分からない美名の下に、政治権力の内部にもぐりこんで、知らぬ間にお上の立場から全国津々浦々に指令を発するという、敵ながらあっぱれ、まことにしたたかな戦術で、日本の国家と国民を破壊する意図を秘め、しかもその意図は遠く七〇年代の全共闘、連合赤軍、過激派左派の亡霊がさながら姿を変えて、自民党政府を取り込んで新しい形で現れた、にわかには誰にも信じられない、おどろおどろしい話なのである」と書いている。
いやいや、そんな与太話、誰も信じなくて正解だろう。むしろ、西尾の『新・国民の油断』を、自民党が各議員に配ったという意味では、そっちの方が「自民党政府を取り込んで新しい形で現れた、にわかには誰にも信じられない、おどろおどろしい話」かもしれないが。あっぱれ。
ジェンダーフリーには「画一的に、同一に扱うもの」「結果の平等を求めるもの」という攻撃もあるが、むしろ逆。既に述べたように、男は男らしく、女は女らしくとして画一的な価値観を与えられるより、多様なライフスタイルを肯定するという意味で使われる。無論、両性を中性に収斂させるというものでもない。男であろうと女であろうと、誰であろうと選択の自由を増やそうという程度のものだろう。
ところで、すごくくだらないことだが(というかこの騒動全体がくだらないのだが)、最近では、なぜか「フェミニストやジェンダーフリー論者が女系天皇を推進するために暗躍している」という陰謀論が出回っているが(フェミニストの地下組織、というような言い方も好まれる)、このような言説も症候的だろう。かつてはレディースデーがフェミニストのしわざとされていた。今度は女系天皇。次は、老人の孤独死や熟年離婚あたりかな。
以上、論点をお送りしました。これからはジェンダーフリーのことを、「資本主義の手先!」と糾弾することにしましょう(ウソ)