斎藤環「バックラッシュの精神分析」紹介

 こんにちは、みなさま。先日は『バックラッシュ!』発売前夜祭チャットに多くの方の参加、ありがとうございました。本日から正式に『バックラッシュ!』の出荷がはじまりますが、今日は大物執筆者の一人、斎藤環さんの論文「バックラッシュ精神分析」から導入部分を紹介します。

精神分析という前提
 議論をはじめるに先立ち、はっきりさせておきたい。この種の問題に言及するさい、私の立場はつねに一貫して「精神分析」だ。そして「精神分析」は、つねに「ジェンダー」を全面的に肯定してきた。私はこれまで、フェミニストを自称したことは一度もないが、精神分析の立場に固執することにおいて、ジェンダーをめぐる議論にある種の公正さを導入しうるとは考えている。そして、このような公正さがフェミニズムのものであるならば、すべての誠実な精神分析家は、つねにフェミニストとも呼ばれうるはずだ。
 これは何かの間違いだろうか? 精神分析の始祖フロイトの、いったいどこがすこしでもフェミニストらしかったというのか? かの悪名高い「ペニス羨望」をすべての女性に押しつけようとしたフロイトが? 幼児期にうけた性的虐待のトラウマを「心的現実」などと命名して幻想化し、加害者を免罪しようとした人間が? 彼がたとえば症例ドラに対して言い放った言葉は、欲望の解釈といえば聞こえはよいが、ようするにレイプの被害者に「君には隠れたレイプ願望があったんだよ」と言い放ったも同然だったではないか。
 フロイトの弟子を自称したラカンとなると、もっとひどい。「性的関係は存在しない」などというだけならまだしも、あろうことか「女性は存在しない」と自信たっぷりに断言した分析家。言語学精神分析を結婚させたのはいいとしても、その極端なファロセントリズムは、すべての「語る行為」を男性的行為に変えてしまいはしなかったか? おかげで女性は、まるで猿かサイボーグか(ダナ・ハラウェイ)、もしくは統合失調症患者のようにしか語り得なくなったのではないか? いったい彼らの名のもとにおいて、いかなる「ジェンダー」理論が可能になるというのだろうか?
 ついでに「ジェンダーフリー」という言葉についても、私の立場をはっきりさせておこう。私自身は、たとえば「男女平等」といった用語は性同一性障害の事例などのセクシュアル・マイノリティに所属する人びとに疎外感を与えかねないという意味からも、はっきりと反対である。その意味では、どうやら悪名高い和製英語であるらしい「ジェンダーフリー」のほうがまだマシであると考えているし、この語に変わる代替案も思いつかない。しかし、政治的な文脈において特殊な色がつきすぎてしまった「ジェンフリ」がどうしてもいかんということなら、せめて「男女平等」よりはもうすこし懐の深い用語を選択して欲しいとは願っている。ただし、「たかが用語」の問題で対立するのはさらに不毛だと考えていることも付け加えておこう。


■「生理的宿命」論?
 いわゆる「バックラッシュ」の言説については、その代表的なものをいくつか読んでみたが、およそまともな批判に値する代物ではないというのが率直な感想である。しかし、この種の議論には、ある種の「実感」に訴えかける「素朴さ」と「わかりやすさ」があり、根絶しがたいしぶとさを発揮しがちだ。その意味では、近年わが国でもっとも広く受容された疑似科学概念であるところの「ゲーム脳」にもよく似ている。これらの議論は、論理よりは感情に訴えかけ、しばしば不安と恐怖を利用して人びとを動員しようとする。しかし、最終的な落としどころはそう変わらない。それゆえ症例分析の対象としては、いくばくかの興味を喚起しうるとはいうことができる。

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 さて明日火曜日はお待たせ「デビューボの泉」です。そろそろネタ切れを心配する方もいるでしょうが、バックラッシュ本を100冊読んだと豪語する chiki さんならまだまだ大丈夫でしょう。どうせなら1000冊読んで、バックラッシャーに転向だ!(ウソ)