ジェンダーフリー論争に潜む俗流若者論の罠 featuring 後藤和智さん(2)

 以下は後藤和智さんをお迎えして行ったチャット座談会の一部です。本来は28日のコンテンツなのですが、1日の最大文字数制限に抵触してしまったので、入りきらなかった分を以下に収録します。

28日のエントリよりつづく)


後藤
 共同体の暴力性に関しましてはこのようなことは内藤朝雄氏が『いじめの社会理論』(柏書房)で詳しく論じられているので、そちらを参考にしているのですが、昨今の「地域共同体の再生」みたいなことが、それこそ「不審者」に対する「総動員態勢」になっているのかもしれない。


chiki
 そうなんですよね。現在ではどうしても「監視技術の道徳主義的利用」(東浩紀)として顕著になる。


後藤
 以上の理由から、私が宮台氏が「地域共同体の空洞化」に結びつけた若者論みたいな論理を持ち出してくることに対する違和感を持っているのです。


macska
 え、宮台さんがそんな論理言っているの? 宮台的には、地域共同体の空洞化は避けようがないのでは。


後藤
 宮台氏は、それこそ小宮信夫氏みたいなことは断じて言っていません。しかし、青少年の「右傾化」なるものを持ち出すにあたり、「コミュニティの空洞化」を問題視していることは事実です。もちろん宮台氏が不安共同体の醸成に手を貸しているわけではないのですが、ただ「コミュニティ」とか「空洞化」を持ち出すのであれば、もう少し慎重になっていいのではないか、と思うのです。もちろん、地域共同体の空洞化は避けようがない、とは宮台氏も認めていることです。ただ、それに関する解決策みたいなものの提示が不十分だな、とは強く思います。


chiki
 後藤さんの意図は分かりました。さきほど「機能代替物」といいましたが、基本的にギデンズの「第三の道」を擁護する宮台さんは、私たちは再帰的近代(ギデンズ)にあるのだから、失われたものは機能的代替物をもって選択的に補うようにすべしと議論をしていますよね? かつては地域共同体が担っていた機能が、その存在の喪失とともに失われ、しかし単純な再生(復古)などは不可能なのであれば、機能的代替物によって埋め合わせるべしと。そこでは「伝統主義者」がいうような「これまでよかったことはこれからもよいこと」というのは通じず、保守主義再帰的伝統主義)のように選択的に伝統をチョイスしていくという立場も単純にはとれないため、再帰保守主義というねじれた立場でしかありえないとして自らを保守思想の立場へと位置づけなおしている。既に空洞化は不可避であるのだからオタオタして騒ぐ前に実効性のあるプランニングをしろということなんですが、後藤さんはここで宮台さんが「空洞化」として指摘していることが、脱文脈化されることで、場合によっては「右傾化」と一緒くたに重ねがきされうる危険性を指摘しているということですね?


後藤
 その通りです。もう一つ言うと、さらに俗流若者論になってしまう危険性も懸念しています。


chiki
 となると、それは後藤さんの戦略的な問題ですか?


macska
 宮台さんは、共同体が空洞化するからとその再生を叫ぶ人たちを批判しているのではないですか? わたしまだインタビュー全部読んでないですが。


後藤
 確かに宮台氏は共同体の再生を叫ぶ人たちを批判するような言説も行なっていますし、数年前の宮台氏でしたらそのような言説が大部分を占めていたでしょう。しかしながら、最近ですと、青少年に対する懸念も多くなっているように見えます。例えば宮崎哲弥氏との対談本『M2:思考のロバストネス』(インフォバーン)の138ページにおいて、宮台氏は「頭の変な学生が急増中」と言って、その原因を《個室化が進んだせいで、他人をノイズとして感じる連中が増えた》(前掲、139ページ)こととしています。しかしこの議論においては宮台氏の青少年に対する認識が――俗流若者論のそれと同様に――自分の身の回りのことだけで、本当にそれが正しいのか、ということに関しては疑問を持たざるを得ない。


macska
 わたしの宮台理解って数年遅れなのかな。M2とか読んでないし。


chiki
 再生を叫ぶその方法がアホだ、とは昔から言ってたよね(笑)。『バックラッシュ!』でいえば、51ページの最後の行とかさ。ずっと宮台トークで恐縮なんですが、これまでの宮台さんの仕事を見ていると、オタク、ギャル、HIPHOP、映画、ロック、サブカル、演劇など、「若者文化」へのシンパシーはあからさまに高いですよね? それを露骨に表明しつつ青少年に対するロールモデルを提示し、もう一方では「悪しきロールモデル」を名指すことがある。それ自体はまずいこととは思いませんが、場合によってはその方法がまずいという話はできるかもしれないし、あるいは、宮台パラダイムが、必然的に若者批判言説を批判できない、あるいは肯定してしまうという批判の仕方もあるかもしれません。そのあたりはどうでしょう?


macska
 「若者文化」にシンパシーが高いということは、そうした「若者文化」で楽しく生きることができない若者にとっては辛いのでは。


chiki
 それは難しい問題ですよね。それは要するに、どのコミュニケーションも通用しない相手、ということになっちゃうでしょ?


macska
 そういう若者には、「コミュニケーションスキルを身につけろ」というだけになってしまうかも。上野さんもそうだけど。


chiki
 そうですね。で、私は実はそれにはある程度賛成しちゃうんですよ。もちろん私は「だけ」ということは絶対にしませんが。


後藤
 確かに宮台氏はいわゆる「若者文化」に対するシンパシーは高かったと思います。しかし、最近になって90年代頃の若年層に親和的な行動が「失敗」だったと語るようになってきています。そして「再帰的伝統主義」などを語るようになってきて、また「摩擦」の少なさが青少年に悪影響を及ぼしている、と言う風な言い方もするようになってきています。


macska
 うーん、そりゃコミュニケーションスキルはあった方がいいに決まってますが、付けろと言って身に付くものでもないし。


chiki
 付けろというだけでは身につかないですよね(笑)。ものにもよりますし。


後藤
 「コミュニケーションスキル」と言っても、何をもってコミュニケーションスキル、と言うのか、その点もまた問題にされるべきです。具体的に言いますと、自称「保守」の連中は、いかに若年層が携帯電話がもたらした人間関係空間でしたたかに生きている、としても、絶対に「コミュニケーションスキルが高い」とは認めないでしょう。


macska
 でも、宮台的にはOKじゃないんですか?すると、俗流若者論になるとしても、保守派とはまったく別種の俗流若者論ということか


後藤
 そうですね。ただし、保守派とは全く別種、と言っても、結局のところ過去の自分の社会環境、生育環境を礼賛するようなたぐいの言説になってきてしまいます。とりあえず宮台氏はまだその危険性に陥ることは少ない部類には属するでしょう。


chiki
 念のためにちょっと極端な質問をしてみると、後藤さんはコミュニケーション能力は問題化されるべきではない、あるいは若者の欠点を言上げするべきではない、あるいは心理還元的な言説は拒否すべし、と言っているわけではもちろんないですよね? 


後藤
 例えば企業社会側が一方的な「コミュニケーション能力」を設定して、それを持たない奴は「人間力」が劣っている、と言うやり方には断固として反対します。また、そのような言説にとって、一種の心理還元主義的な言説は強力な追い風となっていることは疑いないでしょう。ですから、いったん心理還元的な言説は拒否してもいいのではないか、と思います。そもそも心理還元的な言説に拘泥することにより、俗流若者論が生まれるのではないか、という懸念は私の中には強い。


chiki
 心理還元的な言説の危険性は同意です。私は文学部出身で、しかもテクスト論を武器として選択した人間なので、これらは常に重要な問題だったりします。なので今、私がどういう意味で「コミュニケーションスキルを身につけろ」という発言に「ある程度賛成」するのか明確にしておきますね。
 私が専門としてきたテクスト論は、簡単に要約してしまえば作家主義(作家の心理や環境=歴史に還元する読み)への批判です。作家主義とは、「作品」から「作者の意図」あるいは「自然な読み」なるものへと到達することを目論むスタイル。しかし「作者の死」以降、あるいは言語論的展開以降、あるいは後期近代以降、「作者の意図」に還元するような読み方だけでは既に通用しないということが明らかになった。作者の伝記がテクストの読みを方向付けるわけでもなければ、権威ある論者の発言がより「本当の読み」に近いというわけでもない。読むという行為自体が常に政治文脈的なものであり、時代や文化、スタンスによっていかようにも変えられると言う意味で、テクストは常に文化的闘争、多様な読みの交錯の場になっている。
 「テクスト」の語源は「織物=タピストリー」ですが、そのことからも分かるようにテクスト論は「作品」を「作者」のものとして捉えるのではなく、テクスト上に多様な記号と読みの可能性が交錯しているダイナミズムを前提にしたうえで、いかに研究、批評、コミュニケーションが可能かという疑問から出発しています。だからさまざまな理論(例えば受容理論フェミニズム精神分析記号論現象学社会学理論、メディア論などなどなど)を貪欲に吸収するし、テクストを文学に限定しないことさえある。
 ここまでの説明でお分かりいただけたと思いますが、テクスト論は後期近代(ポストモダン)の時代的な背景とも関連があり、そこでは既に、「作者の意図」に還元する手法もある意味ではワン・オブ・ゼムのムラのルールとして理解され、「道徳」的な読みを共有する人同士のやり取りへと接続するか否かという意味だけでは優れたコミュニケーション=読解として理解されないでしょう。そこではコミュニケーション能力とは、自分とは違うトライブへの配慮を含めたリテラシー能力の研鑽として位置づけられるだろうし、それはやはり必要なことだと思うんですよね。無論テクスト論の場合は無媒介にそれを人に適応させることはせず、テクストに限定するという禁欲が倫理としてあるように思いますが。
 そのような前提を学んできたものとして、「伝統主義」的な意味での「コミュニケーション能力」、つまりはムラの共通のお作法をインストールしているか否かでコミュニケーションスキルが優れているか否かと単純に分別されるようなものではなく、むしろそれを批判するものですらあるという意味において「コミュニケーションスキル」を前提にするという点で、私は「ある程度賛成」と思ってる(本書で言えば、「ジェンダーセンシティブ」のそれに近い)。しかし、そういうムラの人と議論をする際の対処法などへの配慮みたいなものはやはり同様に吟味する価値がある、というような立場になると思うんですよね。


後藤
 確かにそれを吟味する必要はありますけれども、それが暴力的な「コミュニケーション能力」の強制(それこそ「若者の人間力を高めるための国民運動」的な)の問題点を隠蔽していいかというと、決してそうではない。


chiki
 ええ。ここで私が言っているのは、作者の意図、あるいは神の存在のごとき大文字の他者を1億人、あるいは60億人が共有することなんてできっこないんだから、共有していないことを前提にいかにコミュニケーションするか、そこにはどのような交錯があるか、その時どのような倫理(≠道徳)が必要かということを見極めるべし、というスタンスですね。私の理解では、宮台さんもこのようなスタンスと大きく異なるものではないと思っているのですが。


後藤
 宮台氏は確かにそのようなスタンスとは大きく異なるものではありません。従って、問題視されるべきは、「コミュニケーション能力」を勝手に序列づけてしまう人のほうでしょう。


chiki
 そうですね。で、宮台さんはそのような暴力的なコミュニケーションの無反省な強制をむしろ批判するのではないかなあと。


後藤
 確かに宮台氏なら批判することは確実でしょうね。


chiki
 後藤さんの立場としては、そこに「だけど…」があるんですね。


後藤
 いや、宮台氏は少なくとも、保守論壇的な「お座敷」のルールを批判しているので、「コミュニケーション能力」の暴力的な押しつけは行なわないでしょう。ただ、何回か触れたとおり、昨今の宮台氏において、「摩擦係数」の低さから若年層を批判する言説を展開することがあるので、その点は注視する必要があるかもしれない。


macska
 ところで実際にコミュニケーションスキルを持たない人は、どうすればいいんでしょうか?


chiki
 その点は、元ひきこもり当事者である上山和樹さんとお話しするときに、毎回のように議論になるんですよね。本書に絡めて恋愛コミュニケーションの例でいえば、例えば恋愛弱者、恋愛コミュニケーションにノリきれないとされるオタクにも「二次元」という機能的代替物がある。では、二次元にすらいけないひきこもりはどうすればいいのか、と。


後藤
 今「ひきこもり」の例が挙がりましたけれども、それがもっともわかりやすい「コミュニケーションスキルを持たざるもの」としてあげられる典型かもしれない(とりあえず、少なくとも我が国の「ひきこもり」の人たちが「二次元にすらいけない」という指摘は重要ですね。マスコミにおいては「ひきこもり」も「ニート」「下流」などと同じように「二次元に耽溺している」というように見られてしまっているから)。しかし、そういう人たちは、逆に「コミュニケーションスキル」は持っているけれども、社会が要求するそれが高くてついていけない、という場合もあるかもしれないし、もしそうであれば、むしろ「コミュニケーションスキル」の狂騒を沈静化していくことこそがエンパワーメントになるのではないかと。


chiki
 うん。今の発言で後藤さんが意図しているように、私は、構造のブラシュアップで救済できる人は徹底して救済すべしとまずは思ってます。でも、どのように構造を問題化しても、絶対に脱社会的な人は一定数出てくるし、あるいは50年後に構造問題がクリアされケアの対象として包摂できたとしても、それまでの間に救済されないまま死んでいく人もいる。だとすれば、その人が内面だけでも救済される宗教や芸術などを肯定していくしかないと思いますし、それらも無理なら一緒に泣くとか、死ぬまでやりすごしにお付き合いするというような感じしかないように思います。そのため、「作者の意図」的なコミュニケーションや、「いきいき」とした運動(例えば保守運動)などで救済される人をぎりぎりのところで否定出来ないのはそのためでもあるんですが。


後藤
 少なくとも「放っておく」という選択肢は温存されるべきではないでしょうか。と言うと暴力的に聞こえるかもしれませんけれども、今の我が国の社会において「放っておく」と言う選択肢を選ぶことは狭くなりつつある。それこそ「戸塚ヨットスクール」とか「アイメンタルスクール」ではないですけれども、「ひきこもり」は戸塚ナントカとか杉浦ナントカとか長田ナントカにでも頼んで施設にぶち込んでおくことこそ最良の解決策だ、と言う世論が形成されつつあるし、「ニート」にしろ、それこそ「家事手伝い」ではないけれども、いかなる理由であれ「ニート」が病的な存在として見なされているようになっている。今こそ「放っておく」という選択肢の重要性を指摘する必要もあるかも。


chiki
 ひきこもりの議論はまたいずれ上山さんらと機会を設けさせていただきたいと思います。この点は本書にも関わるので、最後にもう一度『バックラッシュ!』の評価に戻りましょう。後藤さんが懸念を表明なさっているように、『バックラッシュ!』自体はゴールではなく、新たなバックラッシュの火種にもなりうるので注意が必要だということは強調されていいと思います。


後藤
 了解しました。私の読んだ限りでは、本書は3つの分類に分かれます。一つ目が「フェミニズム」の立場を明確に示しているもの。小谷真理山口智美、長谷川美子。二つ目が「社会学者」として「バックラッシュ」の「気分」を説明するもので、私が違和感を抱いているものです。宮台真司鈴木謙介上野千鶴子。そして本書によって新たに論点が提示されたものです。具体的に言いますと、斎藤環(身体性と権力)、後藤和智俗流若者論)、山本貴光吉川浩満(哲学)、小山エミ(性差)、瀬口典子(脳)、荻上チキ(政治)、といった感じに。1つ目と2つ目に関してはこれまでも提示されていた論点ですが、3つ目の論文に関しましては今までなかった論点です。その点に関しては評価されていい。
 さて、問題点を述べますと、やはり上野千鶴子氏や宮台真司氏のインタヴューが少々問題かな、と。その点に関しましては今まで述べたとおりです。


macska
 これまであったと言いますけど、フェミニズム系の議論はこれまでない種のものが混じってますよ。具体的には、山口さんのと長谷川さんの分。山口さんの言う「95年以前」の日本のフェミニズムの歴史というのは、ほとんど保存されていない。だから、男女共同参画基本法だとかジェンダーフリーでいきなりはじまったみたいになっている。これまでのジェンフリ周辺の議論でも、ほとんど問題とされてこなかったわけで。


後藤
 とりわけ斎藤環氏と瀬口典子氏の文章に関しましては「先を越された」と思いましたし、この2つの論文からさらに視点を広げて論じるような本が出るといいと思います。あるいは、山口智美氏に、本書の論文のコンセプトを保ちつつ、「ジェンダーフリー「失敗の本質」」みたいな本を書いてもらうといいかもしれない。


macska
 それを中心的に出してきたのは良かったと思います。


chiki
 この間のチャットでもそこらへんが話されましたね。


後藤
 本書からそれぞれの論文の構想を広げて、1冊の本として巣立っていく、と言うのもいいかもしれません。確か瀬口典子氏の単著ってまだなかったような気がしますが、どうでしたっけ?


chiki
 アメリカ勢は、日本ではまだ知られていないはず。


後藤
 アマゾンで検索したら単著はないようでした。瀬口氏に関しては、本書の論文に強く刺激を受けましたので、ぜひ双風舎で出して欲しい(笑)。


chiki
 ↑ここ重要。


macska
 ここは双風舎、chiki さんを雇ってどんどん展開すべきですねー。


chiki
 ↑ここも重要。冗談はさておき、『バックラッシュ!』の各論文や議論自体もそうですが、後藤さん、小山さんを始め、各論者の今後にも注目ですよね。本日は長い間、本当にありがとうございました。


後藤
 こちらこそ、ありがとうございました。


macska
 ございましたー。

 2ヶ月続いたキャンペーンブログものこすところ今日を含めてあと4日。ここからは毎日特大企画の連続でお届けします。お見逃しなく!…って、見逃しても後で見ればいいんですが。
 なお、後藤さんの文章が気になった方は、是非『バックラッシュ!』を手にとってください。それから「弱者男性」って言うな!(ウソ)