ジェンダーフリー論争に潜む俗流若者論の罠 featuring 後藤和智さん(1)

 こんにちは、みなさま。今日は『バックラッシュ!』に「教育の罠、世代の罠――いわゆる『バックラッシュ』に関する言説の世代論からの考察」を寄稿してくださった後藤和智さんをお招きして、宮台・上野インタビューの話題を中心に『バックラッシュ!』への感想や、最近ネットで話題の「弱者男性」論とフェミニズムの展望についてお話をうかがいました。ホストはいつもの通り macska と chiki です。
 なお今回のチャットは長文すぎてはてなダイアリーの一日当りの文字数制限を越えてしまいました。よって変則的ですが、一部を昨日の日記に掲載します。

後藤
 改めまして、後藤和智です。よろしくお願いします。


macska
 おはようござい…むにゃむにゃ。目覚まし時計に起こされました。目覚ましに紅茶入れようっと。


chiki
 こっちで深夜ということは、そちらは早朝ですからねー。こんにちわ。本日は『バックラッシュ!』ブログに掲載するチャット大会ということで、後藤和智さんをゲストにお迎えしました。話の流れとしては、(1)後藤さんを招いた理由や後藤さんがネットで論評を始めた理由(2)感想〜批評(3)「次世代」の議論の構築のために、みたいな感じで考えていたりしていますが、(1)と(2)は同時進行でもOKかなと思います。他に論点ありましたらいまのうちに挙げておきましょう。あらかじめ大雑把な流れが分かると、後半楽ですし、読者にとっても都合がよいですから。


macska
 えっと、わたし的には、後藤さんが以前ブログで紹介されていたファルーディの「消費フェミニズム」の原文探し出して読んでおいたので、もし関連があるようなら。あと、わたしが後藤さんに聞きたいと思ったのは、宮台・鈴木論文にあるような「過剰流動性に不安を抱く都市弱者」みたいな話が、後藤さんが常々批判されている俗流若者論スレスレに行っているんじゃないかと思って、そのあたりが一番の興味でした。わたしも「新自由主義」の解説で似たようなこと書いているんで、ひとごとじゃない(笑)。


後藤
 ありがとうございました。実はそのとおりで、先ほど宮台氏の文章を読み返してみたのですが、「過剰流動性に不安を抱く都市型弱者」という図式には違和感があります。例えば宮台氏は、インタヴューのはじめのほうで、昨年の9月11日の選挙に関して語っておられますけれども、そこにおいては明らかに小泉自民党的な戦術に乗るのは若年層である、となされているように見えます。手元に『バックラッシュ!』があるのでしたら確認していただきたいのですが、18ページにおいて、宮台氏は広島9区の取材を通じて、堀江貴文氏に入れるのは大半が若年層だ、といっておられますね。しかしながら、そのようなことを示すのでしたら、まずデータを採り上げてもらいたいものです。そもそも先の選挙におきましては、堀江氏と亀井氏の得票数がほぼ半々、僅差で亀井氏が勝ちました。このような事態を、宮台氏がいかに説明してくれるのでしょうか、というのが私の疑問点その1です。
 さらにその後宮台氏は、「街の風景が昔と変わらずとも、若年世代が年長世代とは昔ながらに『ひとつ屋根の下』で暮らしていても、意識は確実に都市化していく」と書いておられます。さらにそこから、都市化した若年層が小泉自民党に投票するのは当然だ、と行くわけですね。すなわち、同じ家庭であっても、親は「安全な」農村型保守主義、あるいはリベラルであり、子供は「危険な」都市型保守主義、それもインターネットや携帯電話の影響、だといっているのでしょう。これは少々言いすぎかもしれませんが。
 例えば、単純な数値的観点からも批判することができます。そもそも、人口推計(総務省統計局、平成16年)をもとにした私の計算ですと、たとい20代の投票率が20パーセントくらい上がったとしても、新規に追加される票数はせいぜい320万票くらいでしょう。このすべてが自民党に行ったとしても、この圧倒的大勝利はおそらくありえなかったのではないか。自民党の圧倒的大勝利の原因として最も大きいものはおそらく小選挙区制でしょう。さらにそこに公明党選挙協力があった。あともう一つ、総選挙後に刊行された「論座」平成17年11月号に自民党民主党の広報担当のインタヴューが掲載されています。そこで、自民党の好評担当であった世耕弘成氏が、そのすべて(?)を明かしているのですね。そこにおけるメディア戦略は、大体一般的なマーケティングの手法が用いられているように思えます。


macska
 わたしも自民党勝利の理由が若者だとは思わないですが、旧保守と対比される都市型保守というのは確かにあると思うし、それが地方に拡大するときに真っ先に若者が入り込んでいるというのはあるんじゃないかと。数量的に示していないというのはその通りですが。


後藤
 ただ、どうもマスコミ、特に左派マスコミは、もう一つ言うとこの選挙の直後に刊行された、三浦展下流社会』(光文社新書)と結び付けて、若年層がバカだから自民党が勝利した、と喧伝するようになりました。平成17年9月28日付朝日新聞金子勝氏の論説はその典型です。鈴木謙介氏なども述べているのですが(「中央公論」平成18年7月号)、「右傾化」みたいなものが実際にあるかどうか、というところを素通りして、「ニート」だとか「フリーター」は愚かだ、という「決めつけ」で批判されている。


macska
 ああ、それはありそうです。


後藤
 何を言いたいのかといいますと、「今時の若者」という「たたきやすい」イメージがあったからこそ、自民党大勝利の責任を若年層に押し付け、他の世代や選挙制度、あるいは公明党あたりに関しては無視することができたのではないか、というのが私の考えです。つまり、選挙に関する言説もまた俗流若者論の構造に乗ってしまった。ここで言う「俗流若者論」の構造とは、大人は何をしても悪くない(イノセントである)、「今時の若者」のせいで日本は悪くなったのだ、というものですね。


macska
 それは同時に、リベラルが若者を巻き込むことに失敗していることを自白しているようなものかも。


後藤
 あ、今 macska 様がいいこと言った!


macska
 不安を煽ってうまく支持を集めた都市型保守に対して都市型リベラルが立ち後れているというのは宮台さんも言っていることですよね。


後藤
 確かに、リベラルは若年層を取り込むことに失敗しているといえるでしょう。具体的に言いますと、旧来型のリベラルは、政治的な左右闘争に熱心になって、若年層に対する戦略を失っているのではないかと思われます。例えば、岩波の「世界」あたり読んでみますと、俗流若者論が掲載されるようなこともあまり珍しくはない。


macska
 「若者が悪い」となるのは、自分たちが時代に適応していないからですよね。


後藤
 しかしです。旧来型の左翼は、それこそ大学紛争とかデモとかいった「わかりやすい」反対運動には絶大な支持を集めてきた。しかしながら、ネット上におけるリベラルな言説を拾い上げることは失敗した。失敗した、というよりも、やっていないのです。「ネット」とくるとすぐさま「右傾化」とかいうイメージが旧来の左派の人たちの頭の中に浮かんできて、結局のところ若い世代の声を拾い集めることに失敗しているのではないか。
 そもそも既存の左右対立に関しましては、青少年に関する政策論争がほとんど不在です。そんな状況下において「若者よ、選挙に行こう」なんて言っても、それこそ投票結果が権力とマスコミの都合のいいように使われるだけです。権力側が青少年に対する妄想で政策を構築し、マスコミはその問題点をちっとも指摘しないのに、何が「若者よ、選挙に行こう」だ。


chiki
 後藤さんから既に多くの指摘をいただいているので、一度司会者として整理、というか確認をさせてください。後藤さんの宮台読解では、「ミヤダイは堀江貴文氏に入れるのは大半が若年層で、それは若年層が都市型保守化しているからであり、その背景にはネットなどが関係している、と言っている」というように理解しているように見えたのですが、違いますか?


後藤
 その通りです。


chiki
 なるほど。しかしこれは、本当に宮台さんの意見でしょうか。たとえば宮台さんは、「堀江貴文氏に入れるのは大半が若年層だ」とは言っていないし、あるいは「大人=『安全な』農村型保守主義、あるいはリベラル/子供は『危険な』都市型保守主義」という二元論は作っていないですよね。


macska
 うーん、そんなかんじの記述はあるんですよ。でもそれは例示であって、単に例が不適切というだけかも。


後藤
 18ページから19ページに見られます。


chiki
 うん。そうも誤読されてしまう可能性がある、という意味なら分かるんですよね。ただ、それは文脈からするとどうも違うのではないかと思います。まず、後藤さんがおっしゃっておられるのは、具体的にこの部分ですよね。

 選挙の直前にたまたま広島六区の人々に話を伺う機会がありました。面白かったのは、大抵の人が亀井静香氏の圧勝を予想しながらも、自分の二十歳代の息子や娘がホリエモンが遊説しに来るとワザワザ写真を撮ったりすることを話題にしながらも、「ヤジウマ根性と投票意識は別で、選挙では亀井氏に入れるだろうさ」と言っていたことです。でも投票結果を見ると、ヤジウマ根性と投票意識が別ではなかったということになります。
 街の風景が昔と変わずとも、若年世代が年長世代と昔ながらに一つ屋根の下で暮らしていても、意識は都市化していく。見えるものが変わらずとも、見えないものが変わる。九〇年代末、酒鬼薔薇事件に触発されるかのように全国各地で頻発した動機不明の少年凶悪犯罪を取材したときのことを思い出しました。現地の人々は「風景は昔と同じでも、昔と違って隣近所がどんな問題を抱えるのか全然分からなくなった」と述べていました。
 当時の私は「一つ屋根の下のアカの他人」問題と表現しました。一つ屋根の下にいても各家族成員は個室化し、インターネットや携帯を使って別々の世界にコネクトする状況。同じ町内会に属していても、家ごとに出自や階層やハビトゥスが異なる状況。家族の中で、地域の中で、「同じ世間」を共有することがなくなります。これがニュータウン化による共同体的メカニズム空洞化の具体相であり、都市無党派層の増大の背景です。

 ここで言われているのは「都市無党派層」の話であって、それは「若者」に限定されているわけではない。そこに例としてギャルや若者の例が挙げられているが、都市の過剰流動化の現象は年齢や世代に限定されるものではないですよね。これは前後の文脈で確認できると思うんです。ここでインタビュアーである私がした質問は「都市型保守」についての解説であり、そこでの回答は「浮遊するパンピー」のノリ「不安」の言説が結びつくことで政治言説を動かすような流れが出来た、というような議論として理解しているのですが。


後藤
 宮台氏の理論のベースにあるものは、青少年における「生活世界」の空洞化、及び、インターネットなどの普及による家族内での不可視性の増大、という問題系ですね。で、そこから青少年の「右傾化」を説明する、というものでよろしいでしょうか。「生活世界」の空洞化から「右傾化」に走る、という論理には、数点の不安な点があります。第一に、いわゆる「生活世界」の空洞化の危機に直面しているのは、おそらく中高年、特に自分が日本を支えてきた、という(変な)自負がある団塊の世代にもまたいえるのではないでしょうか。


chiki
 言えます。だからこそ宮台さんは、以前から年長も年少も含めて「不安にオタオタするヘタレ」を喝破する戦略を選んできたのでしょう。年長世代について言えば、逆に「昔の匂い」を知っているからこそ、余計に当てはまりそうですよね。


後藤
 最近「団塊の世代」の第2のライフスタイルを模索しよう、というような本とかテレビ番組が多いように思えます。昨日のNHKの「土曜フォーラム」のテーマが「団塊のマネー塾」みたいな内容でしたからね。だから「下流社会」的なトンデモ本が受けるのではないか、という気もします。そして「下流社会」論大流行、そしてその後の格差社会論のインフレ(=価値のスーパーデフレ)も、ある意味では「団塊的働き方」への羨望なのではないか、という気がするのですね。


chiki
 その後藤さんの指摘は、鈴木論文の骨子とも共通する部分ですね。


後藤
 ちょうど現在のフリーター論が支配しているのが80年代終わり頃、すなわちバブル期的なフリーターイメージがそのまま裏返しになったものですね。当時のフリーターイメージが「自由気ままに、組織に縛られずに生きる」というもので、それが現在になると「定職にも就かずに『夢』とか『やりたいこと』だとか自分勝手なことばかり言っている邪魔な奴」という具合になる。象徴的なのは『下流社会』初版本の帯です。今はもうほとんど幻になっていますが(俺は持ってるぜ!)「『いつかはクラウン』から『いつでも百円ショップ』へ」というものです。


macska
 誤植たっぷりの『バックラッシュ!』も幻になりつつありますが。


chiki
 なるといいなぁ(笑)


後藤
 「いつかはクラウン」というのは、それこそ団塊的な生き方イメージの象徴ではないかと思うのです。そして上昇意識を持つことこそが日本の将来の発展につながる、と。そして「下流社会」論でバッシングされているのは、まさに「いつでも百円ショップ」(に見える←強調!)青少年イメージです。最近、三浦氏は様々なところでほとんど同じような青少年バッシングを展開するようになっています。まさに「あっちゃん、いつものやったげて」。そしてそこで展開されているのは、「下流」の人間はおしなべて「社会性」が低い、というもの(あるいはその類似)です。結局のところ、「下流」人間=「今時の若者」の能力は低くなければ気が済まない、というのです。さて、宮台氏などは、ニュータウン化とか、核家族化とかが「多様性フォビア」を生み出している、としています(これは7月7日の保坂展人氏のイヴェントでも聞いて、私が反問したところ、見事に話をはぐらかされてしまったのですが)。しかしながら、このような論理を読んでいると、「多様性フォビア」を持っているのはいったい誰なんだと。


macska
 宮台さんも、結論のところでは「だからそういう弱者/若者を包摂しなければいけない」なんですけれど、そこにたどりつくまでに突き放しているような感じがあるような


後藤
 そうですね、突き放しているような感じは確かにあると思います。


chiki
 ええと、最初の質問と重なりますが、宮台さんの「多様性フォビア」は若者に限定されているわけではないと思いますが、違いますか? 


後藤
 しかしながら、宮台氏の、あるいはその周辺の「多様性フォビア」に関する言説を見ると、どうしても若年層というテーマを切り離すのは難しいのではないか、とも思います。


chiki
 テーマが重なることと、批判対象であることは別だと思います。それと、先ほどのインターネットの件でいえば、メディア論でも因果性についての議論なのか象徴性についての議論なのかで大きく意味が異なります。宮台さんはネットとの因果関係は言及しておらず、ネットなどを利用して「繋がりの社会性」(北田)を構築するような「都市型○○」のライフスタイル、生態を説明しようとしていたように思うのですが、その辺はどうでしょう。また、宮台さんがこれまで多様性フォビアとして繰り返し批判されていたのは、むしろ年長世代であったようにも思うんですよね。もちろん、最近「ゼミ生にヘタレが増えてきた」みたいな例を持ち出して若者批判を展開することはあり、その辺は後藤さんの立場から言えば的確にチェックが必要だと思います。但し『バックラッシュ!』の該当部分だと、骨子としては文脈を捉えながら進めばそうは読めないだろうと思いますし、そう読めると批判するならするでかなりガッチリやらないと「見事に話をはぐらかされ」てしまうのではないかなと。ちなみにいつも私はチャット大会などを行うときは司会者に回ることが多いのですが、今回は公認ブログの性質上への配慮もあって、多少宮台(鈴木、上野)擁護的な役割を担ってみたいと思います(笑)。


後藤
 それはありがとうございます。今、「世界」平成15年11月号の論文を読んでいるのですが、北田暁大氏の「繋がりの社会性」論もまた、2ちゃんねる、携帯電話といった「若者的」――便宜上、あえてこう書きます――メディアとは切手切り離せないような気がするのではないか、と思うのですね。


chiki
 メディア論と若者論の関係は重要ですね、もちろん。「ゲーム脳」だって一応はメディア論として受け取られているんでしょうし、かように「新しいメディア」の登場と、それによってもたらされる一時的な言説的アノミー状態は、「新しいメディアを使う新しい人間」の登場とバッシング(による言説の固定化=ガス抜き)と常に重ねられてきましたから。


後藤
 いろいろ議論を突きつけられて資料をゆっくり参照する暇もないのですが、そこがチャットのおもしろさ、というものでしょう。それはさておき、確かに宮台氏は、「多様性フォビア」に関しましては、たとえば「サイゾー」平成18年6月号の及川健二氏との対談などを見ましても、確かに年長者、特に「正論」「諸君!」的な年長者を批判しています。しかしながら、ここ最近においては、宮台氏が年長者と同時に若年層もまた批判するような言説もまた増えているような気がする。例えば、平成17年11月25日付の読売においては、建築基準法の改正により住居から縁側が消失して、そこから若年層がコミュニティに関わる機会が少なくなり、命に対す畏敬の念が失われた、という、それこそ俗流若者論を展開している。若年層を批判する場合に特徴的なのが「コミュニティの喪失」といったものが用いられることです。おそらくこのような理論は、年長者(特に団塊の世代)を批判するような場合に関しましては使われないでしょう。


macska
 最近ブログ界でも話題になっていましたけれど、いわゆる「弱者男性」についてはどうでしょう? 宮台さんや鈴木さんあたりが包摂の必要性を説いていますが。


後藤
 次の論点が提示されましたので、移りたいのですが、先に「包摂の必要性」に関しまして言いますと、そのような「包摂」がどのような意味を持つのか。特に先ほど提示された「弱者男性」関係の話ともつながりますけれども、もし若年層における格差拡大、あるいは階層に関わらず収入が減少して、社会的な生活を営むチャンスが減少しているのであれば、それこそコミュニティ論的な「包括」策ではなく、労働経済的な視点が必要になるのは不可欠なはずです。
 そのためにはそれこそ年長者が既得権益を手放すことが必要でしょう。それこそ団塊の世代、というよりバブル以前の世代が新入社員だった頃とは違い、現在はフリーターどころか正社員でさえ、与えられるパイが非常に少なくなっている。森岡孝二『働きすぎの時代』(岩波新書)あたりを参照してみますと、現在は正社員でもフリーターでも労働時間は上がりまくり、にもかかわらず給料はほとんど上がりません。


macska
 わたしにとって興味があるのは、そうした経済的な変化が「女性の社会進出」と結びつけられてバックラッシュの要因となることですが。


chiki
 なるほど。ひとつずつ掘り下げましょう。いま2つ後藤さんからお話がありました。一つは、「ミヤダイのコミュニティ喪失云々の話が若者にだけ当てられている」という話。もう一つは、そういう話をするのであればむしろ経済の視点が重要で、コミュニケーションのレイヤーにはあまりノリきれないという話。この要約であってますか?


後藤
 一つ目は正しいです。二つ目に関しましては、経済の視点が必要なのは、青少年の「生活世界」の危機が労働時間の急上昇、にもかかわらず所得の減少、という事態があるのであれば、という話です。そして実際にこのような前提は正しいのではないかと思います。


chiki
 なるほど。一点目の「コミュニティの喪失」で批判されているのは若者云々に関してですが、宮台さんはかつて過剰流動化の中でタフに生き抜いていくベターな身体性を「ギャル」に見出していくという戦略をとっていましたよね。あるいは若者に人気のアーティストを「天然系」や「解脱系」などと分類してロールモデルをさししめしていた時期もありましたが、その辺を後藤さんがどう評価されるのかが気になります。もちろん、そのような戦略が若者を過剰に美化していて、ベクトルが逆なだけで「俗流若者論」である、言説と実態が乖離することによる弊害を生む、という批判も可能だと思います。となると、これは2点目にも関わりますが、現状と言説との乖離をどのようにときほぐしていけばいいのか、という視点についても是非じっくりをお話をうかがってみたいです。これは macska さんのさきほどの質問と重なるものです。


後藤
 後者の如き経済的な変化が「女性の社会進出」と結びつけられてバックラッシュの要因となることですが、確かに女性が社会進出するようになったから現在の若い世代の男性の配分が減った、という図式は説得的に「見えます」。このようなものに関しましては、おそらく男性だけではなく女性に関しましても就業への機会は狭まっているように思えますので、女性が社会進出したから「弱者男性」は活躍できないのだ、という図式はおそらく、経済統計から見れば誤りでしょう。少なくとも、若い女性もまた若い男性と同じように窮地にあると思われますので、数百歩譲っても「フェミニズム」を批判することは正当でも女性全体を批判するのはまずいと思う。しかしながら、このような言説がある種の「正しさ」を持ってしまう側面も見逃せないでしょう。これに関しましては、「論座」でも紹介した、堀井憲一郎『若者殺しの時代』(講談社現代新書)が格好のテキストとなるでしょう。同書に関しましては、1980年代の消費バブルに関して、著者の経験にも即しつつ体験的に書かれているのでおすすめできます(90年代論に関してはダメダメですけど)。それを読んでみると、1980年代の消費バブルを牽引してきたのは間違いなく「女性」といえるでしょう。そして「男性」(もちろんこれも記号ですね)は常に後進に追いやられてきた。もちろん私がここで「女性」をカギカッコに入れたのは、女性という実体ではなく「女性」という記号だからです。


chiki
 経済的な変化は女性の社会進出という相関をもたらしますが、女性の社会進出が経済的な変化をもたらしたという因果関係ではないのは注意ですね。で、後藤さんの話ではそこで消費フェミニズムの話が出てくるんですね。


macska
 消費フェミニズムについて、読者のためにちょっとまとめてもらえませんか。


後藤
 消費フェミニズム、というのは、要するに、通俗的な「フェミニズム」が「幸せ」とか「地位向上」などを求める余り、消費社会に屈服してしまった、というものですね。そして「女性解放」=「買う」という状況である、と(「ニューズウィーク日本版」平成13年1月24日号)。そして、我が国においては、1980年代の消費バブル以降、「女性」という記号は消費社会にとって重要なものとなった。ところが、男性に関しましては、そのような「記号」に戯れることが許されなかった。それに加えて、女性に関しては伝統的に「専業主婦」という道があった。男性に関しては、旧来の保守オヤジ(笑)的な道徳が支配して、消費社会の記号となることもなければ(保守オヤジ(笑)にとって「今時の女性」という「記号」は自らが道徳的説教を垂れつつ(=自分の道徳的欲望を満たしてくれる)、欲情することもできる(=自分の下劣な性欲や支配欲を満たすことができる)存在です。だから、私はここで「男に専業主夫の道を!」と主張すればいいと思います。そうすれば「弱者男性」に対するセーフティーネットになるかもしれない。ただし最近は女性に対して別のところから風あたりが強くなっているのも事実。それこそ「下流社会」論ですよ。


macska
 男性が専業主婦を経済的に支えることすら難しくなっているのに、専業主夫を支えられる女性なんてどれくらいいるんでしょうか?


chiki
 そう。最近の専業主夫擁護に関してはいくつか気になるところが私にもあるので、是非聞いてみたいです。


後藤
 そうなんですよ、だから難しい。ですから本来であれば、低成長自体における新しい経済モデルを提唱すべき。しかしそれでは、それこそ「下流社会」論大好きの保守オヤジ連中が許さないでしょう。


macska
 専業主夫に対する社会的スティグマなんてものはバカらしいからなくすべきだと思うんですけど、社会的なモデルとしては専業主夫には将来性はないと思うんです。


chiki
 うん。最近「ヒモソーシャル」という言葉を使用しているブログがあって、エントリー内容はともかくそのフレーズがなるほどと印象に残っているんですが、今「あえて」叫ばれているような専業主夫ってのは、とどのつまりはその駄洒落に象徴されるようにホモソーシャルへの憧れの亜種に見えてしまうんですよね。専業主夫を選択するのは全然OKで、反対する必要はまったく感じませんし、『君はペット』をロールモデルにした生き方を選ぶのも楽しいと思いますが、しかしひっかかるのはそのためです。あ、『君はぺット』は「拾った奴隷が実は王子様だった(世界的なバレエスタァ!)」みたいな構造があまりに非現実的だと思いますが(笑)


後藤
 確かに男女とも所得が減少傾向にありますから、経済的に見れば、専業主夫モデルというのは、女性の所得が高くなければ難しい。そして女性の所得も男性と同様少なくなっていますからさらに難しい。もっと言うと、一握りの所得の高い女性も、たぶん低所得の男性とつきあうことは少ないでしょう。ですから、この低成長時代に関して言いますと、もはや男女共働きでもない限り最低限の所得を確保するのは難しいかもしれません。


macska
 むしろ、共働きを前提に、一人の給料で妻と子供を養わなくてはいけないという強迫観念から男性を解放する方が現実的なのでは。


後藤
 その通りです。


macska
 そんなことを言うと、またフェミは専業主婦を敵視しているとか言われるかも(笑)


後藤
 言われないと思いますよ。あと、最近、あるブログで、女が強くなって「弱い」男に見向きをしなくなったのはフェミニズムのせいだ、という文章を見たことがありますけど、「男は強くあらねばならぬ」という(差別的)伝統意識をその女性が内面化している、という見方も可能だと思う(まあ、このような意識はフェミニズムではなく「消費フェミニズム」と結びつけて考えることはできるかもしれないけれど)。しかしながら、それこそ団塊的価値観へのバックラッシュ(=「下流社会」論)が起こっている昨今、まず、そちらをつぶすことが先決ではないか、と思っています。そのためには、三浦展は女性の敵だ、と叫びたい!もちろん男性にとっても敵だ!


chiki
 あえてベタベタなことを言うと、専業主夫とことさらに掲げることで結局は女性から「搾取」しようとするよりは全然いいと思います。


後藤
 共働きも専業主夫も認めなければならないのですが。まあ、「家事手伝い」が「ニート」と呼ばれる昨今、専業主夫なんて認められるはずはない。


chiki
 うん。同様に認めていいと思いますよ。


後藤
 認められるはずはない、というのは、私ではなく、むしろ社会(というよりもマスコミとかマスコミを牛耳っている世代とか)です。


macska
 個人の生き方という意味では、専業主婦も専業主夫も認めればいいんですよ。でも、それを前提とした経済構造には今はなっていない。


後藤
 そう、なっていない。そのことを「下流社会」論大好きの保守オヤジ連中と(自分は絶対「ニート」にならないと思いこんでいる)優等生連中(「慶応キャンパス新聞」の論説とか)に納得させなければならない。


macska
 「男は企業に尽くし、女は家庭に尽くす」という専業主婦制度を前提とした経済構造になっていたのは、せいぜい高度成長からバブル崩壊までの30年くらいですね


chiki
 文化的というか、認識的にはバブル崩壊後の95年(オウム、震災、エヴァなど)くらいにメルクマールをおくと、「ジェンダーフリー」という言葉の誕生と重ね描きされることになりますね。「専業主夫」の話を引き継いでさらにベッタベタなことを言いますが、私が「専業主夫」というのを「オルタナティブ」として賛美する言説に違和感を覚えるのは、その種の言説が進歩ぶったポ−ズをしながら「食事も金もセックスも住居も承認も提供してくれる代理ママきぼんぬ」という「マザコン的発言」にしか聞こえないからなんです。関係性の中で何かを引き受けるというような話にはなっていない。


後藤
 でもある種の言説もまた、男性に対して食事も金もセックスも承認してくれる存在であることを求めるものもあると思います。というよりも正確には男は「女性に対して食事も金もセックスも承認も提供する存在」であれ、という言説のほうがむしろ多いかも。それこそ私が「俗流若者論ケースファイル81」で批判した「読売ウィークリー」の記事とか。


chiki
 そう。だから問題化されるべきはそのようなパワーバランスの是非や環境なのであって、それを反転させただけでは全然解決にならないんですよね。専業主夫を甘えだとか非難するつもりは毛頭なく、念のために繰り返すと、いてもいいし、選択の自由として抑えるべきで、現在では何らかのロールモデルを指し示していったほうがいいとも思う。ただ、それが「弱者男性救済」とかそういう話として政治言説的に機能するとはまったく思わないし、弱者女性より身分が下だから優先されるべきであるとかという話は違うでしょ。


後藤
 その通りです。そのために「第三の道」が必要なのではないかと思われますが、我が国の言論構造やマスコミの構造を見ていると「第三の道」など夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢ではないかと思えてくる。


macska
 でもさ、男に「女性に対して食事も金もセックスも承認も提供する存在」であれと言われた時代には、一応それなりの経済的条件があったわけでしょ。女性が男性に依存せざるを得ない構造も。その逆に「専業主夫を「認めろ」というのは現実の経済的条件が全くないのに、言説だけが出てきた。


後藤
 確かにその通りなのですが、経済的条件がなくなった今でもそのような言説はなくなっていない。


chiki
 なくなりたての今だからこそ、というのもありそうですね。


後藤
 だとしたら先につぶすべきはそのような言説です。そのためには執拗な俗流若者論批判が必要となる。


macska
 んーとね。わたしが書いた「新自由主義」の解説と、鈴木さんの論文とでちょっとスタンスが違うところがあって。わたしは、社会の複雑化と不透明化によって「誰が弱者で、どれだけの再分配が必要か」という点において社会的合意が成立しにくくなったことに重点をおいていて、それは現実の変化よりは、社会的合意の変化を問題としているんです。


chiki
 コミュニケーションのリアリティ(自明性)の変化ですね


macska
 鈴木さんは、はっきりと言っているわけじゃないんですが現実に女性への手当ては既に行き渡っているから男性弱者を救うために再分配の仕組みを変えようと言っているような気がして。現実も変化しているのだろうけれど、それより急激に観念上の変化が起きているような気がします。鈴木さんの論文の最後のあたりですね。


chiki
 えーと、

手当てを必要としているのは、自由で多様な生き方を選択できないがゆえにサポートを求めている人びとだけではない。自由で多様な生き方を選択させられているがゆえに非寛容になっている人びとにこそ、サポートが必要とされているのである。ジェンダーの問題に関していう限り、前者が継続的な労働市場から排除されている女性だとすれば、後者はいずれ家族を支えることを期待され、市場原理にもとづく自己責任を求められ、見通しも立たないのに必死で働かなければならない男性のことになるだろう。ジェンダーフリー・バッシングという擬似問題に固執し、ましてバッシングの当事者を「心が弱い人たち」といったかたちで属人的に非難して溜飲を下げるだけでは、議論にいかなる実りもない。誰にとってもよりよい社会をつくるための政策的な議論こそが必要とされているのだ。

ってとこ?


macska
 それですー。「女性は優遇されすぎだ、男性にもサポートしろ」というバックラッシュに対抗するのに、それをそのまま認めてしまうのはどうかと(笑)。誰にとってもよりよい社会をつくろう、というのは反対のしようがないですが。


chiki
 ええと、「だけではない」から「にこそ」になる当たりはそう読めてしまうだろうけど、鈴木さんの論の骨子は要するに「流動化への変化へと体制を適応させるための意見論争にシフトしよう」ってことですよね。但し、現状認識の視点の取りかたには異論が出るかもしれない。政策サイドからの視点であるとか、それとも関係すると思うけど、固執しているのを「バックラッシュ批判側」に置くという視点とかですね。ここだと、擬似問題にこだわっているのがフェミニストってことになっちゃう。


macska
 導入部分とか、もろにそう書いているような。


後藤
 鈴木氏のその記述に関しまして少々付け加えますと、これは本田由紀氏の「ハイパー・メリトクラシー」論にも影響してくるのですが、ここ最近の社会的状況として、それこそ「若者の人間力を高めるための国民運動」的なものに代表されるとおり、社会(というよりも大企業や政治)が求める「コミュニケーション技術」が極めて限定されるようになっている。しかも、そのような「コミュニケーション技術」を持たないと社会性に劣った奴だ、という論理がはびこっている。そしてそのような状況はまさにネオリベ化とパラレルであると。それはさておき、私は「バックラッシュ」批判派が用いるような、ある種若年層を見下したような物言いには違和感を覚えるのですが。その点に関しては「バックラッシュ」批判派にもある程度の戦略変更が求められるかもしれない。


chiki
 固有名出していいですよ(笑)


後藤
 ええ、それこそ宮台真司氏と上野千鶴子氏(笑)。『バックラッシュ!』の中で山口智美氏も書いているとおり、「論座」や「世界」などの「反バックラッシュ」論は、「バックラッシュ」側の「心理」や「意識」について批判するようになっている。これは「反バックラッシュ」の人たちもまた「疑似問題」に陥ってしまっている、とはいえないか。


chiki
 「バックラッシュ」批判派にも「けがれなきたましい」とか主張する人もいるからね(笑)。上野さんの発言で問題とされてるのは、おそらく「ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい。そうすれば、ノイズ嫌いでめんどうくさがりやの男を、再生産しないですみますから」というところですよね。


macska
 上野さんの発言、どうしてそこで「性犯罪をおかさずに」が入るんでしょうね。


chiki
 確かにこの上野さんの発言だと、オタク=性犯罪者というような俗情にライドしてしまいますから、後藤さんのような立場から批判されてしかるべきだとは思います。


後藤
 それだけではなく、たとえば現在の学生は少子化の影響で幼稚になっているとか平気で言ってのけていますし(393ページ)。それなんて速水敏彦?って思いましたよ。ところで「たましい」って誰の言葉ですか?江原啓之?あの人はむしろ「バックラッシュ」(というよりアンチ・ジェンフリ?)側ではないかと思われますが。あとオタク=性犯罪者みたいな物言いもだめですね。大谷昭宏ですか。今大谷昭宏氏の名前が出ましたが、それこそオタク=性犯罪者、的な図式は左派にも共有されている。青少年問題言説というのは、既存の左右が対立しているのではなく、既存の左右が一緒になって不寛容・不理解・そして俗流若者論を展開している。私のように、青少年に対して左右で共有されている「語り口」に疑問を覚えるような人は、必然的に既存の右からも左からも閉め出されてしまう。


chiki
 あ、ローカルなネタですみません。「たましい」ってのは、女性学会幹事の伊田広行という方が、ブログで山口さんらを批判しながら「『仲間内』で人の悪口をいって喜んでいるレベルや、何もかえないで高みにたって揶揄するだけの冷笑主義がWEB内には多いですが、それを“恥”とわからないのは、自分の〈たましい〉に照らし合わせた生き方ができていないからだと思います」と非難しているんですね。仲間内ってのは、macska、山口、斉藤らのことです、時期的に。


後藤
 まんま江原啓之じゃん。そんなこと言うんだったらまず「正論」の「バックラッシュ」連中に言え、と。あ、彼らは「たましい」に従って生きているから問題はないのか(笑)。


chiki
 そもそも「たましい」という概念を議論に持ち込むことが危険で、特になぜそれがフェミニズムと重ねられるのかがちょっと理解できない。


macska
 でもわたしが伊田さんを批判したのは、伊田さんがこんなこと言うからです。

 また私の「ジェンダーフリー」概念へのスタンスは、『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング』に簡単に書いたが、双風舎の本では「ジェンダーフリーに対して批判的かつ傍観してきた論者」を集めたと前書きにあるように、何人かの人は、私とは意見が異なるだろう。執筆者のひとり、山口智美さんなどは、かなりフェミニズムを誤解しておられるようだし。

 どこをどう誤解しているかという指摘は一切なし。ただ単に「フェミニズムを誤解している」と決めつけている。どちらが「何もかえないで高みにたって揶揄するだけの冷笑主義」なのかと。


chiki
 うーん。伊田さんは本の中で、宮台さんの意見の超劣化コピーのようなことを書いているので、気になってるんです。例えば次のようなパラフレーズが展開されていくんですね。

 伝統的保守ではない個人主義的な人々が、ウェブ上で簡単にプチナショナリズムになっていくのは、その一例です。不安をたやすく煽られるタイプの人が増えているのです。
このような時代状況を背景に、簡単な言葉で、「俺がぶっ壊してやる、変えてやる」と叫ぶ小泉首相が登場して、そこに期待を持つ人々が無防備に群がりました。多様性を許容しないカタチで人々を動員する「不安のポピュリズム」です。
 「下流」「フリーター」「無職」と呼ばれる人たちの一部が、格差を作り出した新自由主義的政策を推進する小泉政権に怒りを向けず、むしろ「改革」を口にする小泉政権に期待し続け、パソコンやテレビ・雑誌の前で、『朝日新聞』を叩き、自己責任論にのっとって「サヨクフェミニズム・弱者たたき」をしています。 (『男女共同参画ジェンダーフリーバッシングQ&A』p.177)

 伊田さんの本文では「第三の道」を提案していたりして、それは社会学の常識みたいな言葉だから問題ないとは思いますが、他に「不安のポピュリズム」「市民的都市保守層」って言葉も出てきたり、日本の特殊事情の説明部分があまりに酷似していたりする。しかし参考文献には宮台さんの「み」の字もない。伊田さんの本が出る3ヶ月前には宮台さんは自分のインタビューをブログに公開しているのですが…。
 まあ、とりあえずここまでを一旦整理すると、上野さんの該当部分はオタクバッシング的な言説に乗りやすいと思うので、後藤さんが明確に批判の意を示したことは素晴らしいことだと思う。もちろん一方で、彼女がオタクをケアするのは女性やフェミの役目ではないと明確に宣言したこともひとつのスタンスとして尊重されてしかるべきだとは思いますし、そこをめぐって議論も苛烈に行われてほしい。


後藤
 ひどいですね、伊田さん。さて、私が問題にしたいのは、「反バックラッシュ」言説もまた俗流若者論に片足を突っ込んでいるのではないか、ということです。もちろん、本家本元の「バックラッシュ」言説は完全なる俗流若者論なのですけれども。


chiki
 宮台さんのほうは、最初の点がいくつか宙に浮いていたように思いますが、後藤さんいかがでしょうか。私が今、ミニミニミヤダイ君みたいなのを演じてるのは、実は今回のチャットには隠しテーマがあって、要するに「2世代下の論者は、宮台真司をどのように回収するのか」というものだったりして(笑)。2世代下の論者には、今のところ後藤さんしか浮かびませんから。


後藤
 なるほど、「2世代下の論者は、宮台真司をどのように回収するか」。その点に関しては確かに深めてみたい。私だけでなく、一応、ネットで発言しているような比較的リベラルな人たちも加えていいと思います。「宮台真司」に「オウム」や「援助交際」がらみで擁護されていたような、あるいは「酒鬼薔薇聖斗」がらみで「救済」せよ、と言われた人がいかに「宮台真司」と向き合うべきか。


chiki
 後藤さんにはちょっとブレイクしていただいて、macska さんからお願いできますか? 赤木ブクマへのレスポンスから誤解されているかもしれないので念のために言っておくとさ、macska さんは弱者男性問題を切り捨てていいとは全然思っていないんですよね。


macska
 思っていないですけど、弱者女性の問題や赤木さんが「弱者男性」という時に排除されている在日コリアンの男性や被差別部落出身の男性などが無視されるのはどうかと。


chiki
 そう。赤木ブクマを批判したからといって、それはオタクや弱者は問題ではないと言っているわけではない。マッピングの補正みたいなものです。それと、フェミニストが万人を具体的説得で「包摂」しろという話はありえないしね。


macska
 わたしは山口さんと話していて思ったんですけれど、日本のフェミニズムの大半にはかなり違和感があるなと。それは、日本のフェミニズムの大半がいまだに「女性差別」や「ジェンダー」を中心に回っているからです。一方的に「日本遅れている、アメリカ偉い」みたいにしたくはないのですが、日本にも様々な多様性があるのにそれでいいのかと思います。


後藤
 横槍失礼。私も現代のフェミニズム的言説に関しては違和感がありますし、それこそ三浦展荷宮和子などはフェミニズムの「鬼胎」なのではないかと疑っています。三浦展なんて、例えば『「かまやつ女」の時代』(牧野出版)などで、上昇志向を持つ女性は外見的にも美しく、キャリアも得られるのに対し、持たない女性はだらしない格好でフリーターなどの「下流」を選び、さらに三浦氏は後者に対して「自閉的」だとか「オタク的」(「大人になりたくない」、と言う意味です。そもそも「オタク」=「大人になりたくない」という図式も大いに疑われるべきですけど…)だとか罵っている。


macska
 少なくとも米国のフェミニズムでは、ジェンダーの問題だけでなく人種や国籍や障害やセクシュアリティの問題を全て同時に扱うというのが、少なくとも建て前としては前提となっていると思うんです。実際のところどうかというと、やっぱり「女性」のことしか考えられない人は大勢いますよ。でも建て前としては、「女性」とか「ジェンダー」だけが中心にはなっていない。それは、「女性」を中心とすることが、多くの女性を疎外するからです。その副作用として、「男性」を一方的な抑圧者として位置づけたり、男性問題に無関心ということは、理論的に許されないんじゃないかと思っています。


後藤
 それは我が国が(見た目←強調!)一億層中流だと思いこんでいて、さらに(見た目←強調!)単一民族国家であるからでしょう。しかし、そのような見方が、確かに macska 様のおっしゃったとおり様々なマイノリティを疎外してきた。それに高度経済成長が重なって、様々なマイノリティの問題を棚上げにして、日本全体が成長しているような幻想に陥った。


macska
 「女性中心ではない」とか「男性を一方的な抑圧者として位置づけない」というのは、別に男性のために言っているわけではないんです。そうでなくて、「女性」内部にも「男性と女性」のあいだに匹敵するような権力の分断線が無数に走っていることを認識するなら、もはや「男性と女性」の関係をそのような絶対的なものとして捉えることはできなくなる。


chiki
 それは例えばスガ秀実によればすでに68年の時点で問題化されていたはずなのに、あるいは昨今の学問的事情からすればポストモダニズムやポストコロニアリズムで議題に繰り返しあげられていたのに、ということになるんでしょうね。


後藤
 高度経済成長期においては「男性vs.女性」といった図式を掲げていればそれでよかったけれども、平成不況と低成長時代になってからは様々な「境界線」や「分断」が見えてくるようになり、単純な図式の虚構が目立つようになった。また、運動や言説は自己目的化し、それこそ荷宮和子みたいなものを産んできた。そして、そのような状況に対応しきれなかったのが戦後日本的フェミニズムであり、そのようなフェミ側の様子を喜んでいるのが「バックラッシュ」側でしょう。


macska
 うーん、わたしに言わせれば高度成長期にそれで「よかった」かのように見えていた、というのは「誰に」そのように見えたかが問題でして、たとえば当時アメリカの軍政化におかれていた沖縄の女性がそれで「よかった」と感じていたとは思えない。せいぜい狭い学問の世界のなかでそれで「通用した」に過ぎないのではないかと。


chiki
 後藤さんの質問につなげると、そのような日本のフェミニズムのスタンスが鬼子として副作用を生んだ、という理解になりますか? それともなりませんか? ちなみに私は「微妙」です。


後藤
 なります。特に三浦展荷宮和子がそうです。


macska
 バックラッシュはどちらにしても起きていたでしょうけど、弱者男性という区切りではなくて新自由主義的な経済政策の影響を強く受ける層という意味であれば、それへの配慮はすごく必要だし、そもそもそうした経済政策自体に抵抗するということも必要だと思います。ことさら弱者男性と切り出すと、男性のあいだの多様性や多くの女性が同じくそうした経済政策による圧迫を受けていることが忘れ去られてしまうし、バックラッシュ的なものに動員されやすくなってしまう。


後藤
 ただ、フェミニズムの側の低成長に関する戦力不足がいわゆる「バックラッシュ」を産んだ原因の一つではないとは言い切れない。もちろん「バックラッシュ」側のほうが戦略的に見ればナンセンスですよ。越えられない壁を数枚隔てているくらい。


chiki
 あらかじめ断っておくと、これは後藤さんへの反論ではないレイヤーの議論です。macska さんが指摘した日本のフェミニズムに関する問題はそのとおりなのだろうと思うんですが、バックラッシュというのは、フェミニズムの理論的な問題を把握して批判を展開しているわけでもなければ、フェミニズムコミュニケーションのレイヤーで言説交換をしているわけでもないですよね。


後藤
 その通りです。どちらかというと、フェミニズムは怖い、そして同時代の若年層が情けない、というのがつながって、陰謀論とか疑似科学になってしまう。


chiki
 で、その言説をも、フェミニズムコミュニケーションの問題体系に位置づけるべく「バックラッシュ」「鬼子」として理解すべしというのであれば賛成、但しそこを通時的な因果関係で結びつけるのは「微妙」ということなんです。


後藤
 もちろん「バックラッシュ」と、戦後日本的フェミニズムの「鬼胎」としての三浦展荷宮和子は全く別物です。しかしながら興味深いのは、いずれも俗流若者論をベースに持っていること。


chiki
 「バックラッシュ」の問題ではなく、三浦は消費フェミニズム、荷宮は林真理子と一連の論争の議論の流れをそれぞれ汲みしていると捉えれば、「フェミニズムの『鬼胎』としての三浦展荷宮和子」とは言えそうですね。それから、日本の反バックラッシュ言説が、「保守」「男性」を想定して行われていたという後藤さんの批判部分は賛成です。もちろんそれはそれで必要ですけど。


後藤
 むしろ「保守」「男性」「若者」と言ったほうがいいかも。私が荷宮和子という存在を要注意と認識したのは『新現実』第2号です。それにしても大塚英志氏はよくあんな文章を自分の雑誌に載せる気になりましたね。あの雑誌は3号で終わってしまい、しかも2号からは東浩紀氏のクレジットが消えてしまった。で、あの雑誌は今はコミック誌ですか。


chiki
 『コミック新現実』は一応別の雑誌ということになってます(笑)。俗流若者論の話に戻す前に一度確認したいのですが、フェミニズムコミュニケーションを効率的に駆動するなら、フェミニズムバックラッシュを「チャンス」あるいは「扱うべき対象」として「理解」すべし、ただしそれはバックラッシャーのリアリティである「フェミがこの世をだめにした」という因果関係を肯定するものとは議論のレイヤーが別、という話でOKでしょうか。


macska
 うーん、チャンスにするというのはフェミには重すぎる。


chiki
 あ、重い?


macska
 というか、フェミニズムというもの自体今では「お勉強するもの」になってしまっているでしょ。


後藤
 フェミ論客ではない私には重いかどうかはわかりませんけれども、少なくともフェミニズムが「バックラッシュ」をいかに「理解」するか、そしていかに批判者側に自らを「理解」してもらうか、ということが課題です。少なくとも、今までのやり方、すなわち「バックラッシュ」側に立つ人たちの「気分」を「分析」して、勝手に「時代」の「空気」とか「病理」をでっち上げ、「バックラッシュ」側の人たち、特に若年層のそれに対する不可視性を強めるようなやり方を続けていたら、フェミニズムもまた「バックラッシュ」と同じように俗流若者論に転落するかもしれない。


chiki
 あるいは啓蒙するもの?


macska
 啓蒙…すらできていないかも(笑)


chiki
 キツイ評価ですね。


後藤
 だとしたら、いかに「バックラッシュ」言説が「かっこわるい」ことを証明するか、という戦略が必要でしょうか?


macska
 フェミニズムバックラッシュ言説を理解するというのは大切ですよ。でもそうやって分析して理解したところで、どれだけ効果があるかなと。逆にあんまり分析しすぎると、こんどはバックラッシュ側に議題設定されてしまうし。同室着替えがあるかないかとか、ジェンダーフリーの「フリー」はどういう意味かとか、そんなのくだらないでしょ。それで相手を論破したところで、何も得られない。議題設定の時点で負けている。だから、わたしとか chiki さんは相手の言説をすごく丁寧にウォッチして反論してきたんだけれど、それじゃ不十分なところもあるわけ。


chiki
 そう。そこで行われているのは学コミュニケーションではなく、リアリティを作るゲームをしているんだからね。


後藤
 だからこそフェミニズム以外の視点からでも理解しなければならない。『バックラッシュ!』の中には、その材料となるような論文があります。斎藤環氏とか、瀬口典子氏とか。
 相手は「不安」、特に「ジェンフリ教育を受けてきた「今時の若者」が作り出す暗澹たる未来」に対する「不安」を煽っています。「ジェンフリ教育」は、「携帯電話」「インターネット」「ゆとり教育」などと同じように自分の世代には「なかった」ものですから、俗流若者論と同様に不安を煽ることができる。「バックラッシュ」を巡る言説が、優れてアイデンティティ・ゲーム的なのかもしれない。


macska
 かといって、フェミニズムが何をポジティヴに主張していけるかというと、なかなか難しい。宮台さんが言うとおり、希望を共有するより不安や不信を煽る方が政治動員的にずっと簡単なんです。


後藤
 少なくとも、フェミニズムに相手のアイデンティティを破壊するような力は持っていないかもしれない。


chiki
 動員ゲームですね。後藤さんもご存知のとおり、正論の各文章の見出しって、本当にガンガン煽りまくってますよねー。「!」がとにかく多い(笑)。


後藤
 確かに(笑)。動員ゲームで負けていると言っても、だからといってこちらも動員ゲームで行くと、相手と同じ穴のムジナに陥るかもしれない。つまり、動員ゲームを批判する側は、相手がいつか納得してくれることを信じて、負ける戦いを続けるしかない。


macska
 辛いですねー。祈りとしてのリベラリズムになってしまう。


chiki
 自民党の大勝というのは、自民党の「祭り」の方が面白かったからって理解もできますからね。


macska
 民主党がつまらなすぎたというのもあるけど。


後藤
 ある意味では、「負けることこそ意義がある」。これは、「バックラッシュ」批判派だけでなく、俗流若者論を批判するものにとっても常に頭に入れなければならないことかもしれない。だから、俺が妄想しているように、民主党社民党日教組朝日新聞が一斉に「反若者論」を打ち出してくれればいいんだ!(笑)


chiki
 はっはっは(笑)。では、フェミニズムコミュニケーションの問題は一度おいておいて、俗流若者論の話に行きたいのですが、ちょっとハードな質問していいですか?


後藤
 はい。


chiki
 最初に設定した1〜3の3に関わるんですが、今回は、是非後藤さんに聞きたいと思っていたことがあるんです。それは、(1)後藤さんは俗流若者論を批判することで何をもたらしたいか。(2)それをもたらすためには、その手法でOKか。(3)自分が「若者」ではなくなったとき、その立場は貫かれるのか、の三点です。後藤さんは、私がトラカレで以前、上山和樹さん、井出草平さんと一緒に、『「ニート」って言うな!』の読書会をした時のログをお読みいただいているでしょうか? チャットのときは主に本田さんの論文が議論の対象になったのですが、そこでの重要な論点は、「言説と現実の乖離を指摘するだけで十分か? それらを一致させるという手段で十分か? 十分だとして、それは可能か?」と問うものだったんです。その点についてご意見を是非伺ってみたい。


後藤
 まず一つ目については、マスコミ側に対して、少なくとも「ゲーム脳」「フィギュア萌え族」とか、あるいは「ニート」論みたいな、一方的な若年層をバッシングするような色眼鏡を外して欲しい、ということと、マスコミの青少年言説を鵜呑みにすることの恐ろしさについてもっとわかって欲しい、ということです。


chiki
 なるほど。つまり(1)についての回答は、リテラシーを与えていくこと、あるいは声をあげていくことで、言説の一方的支配を拒絶していくもの、ということですね。


後藤
 二つ目に関しましては、例えば、それこそ一部の「バックラッシュ」批判派みたいに、「なぜ彼らは俗流若者論に走るのか」ということを「分析」するようなやり方ですと、こちらもまたかえって俗流若者論に陥りかねない。本来目指すべきことは、例えば「ニート」に対する一方的な蔑視を取り外して、「ニート」であることを過剰に問題視しない、もう一段階進むと「ニート」も認める方向に動かなければならない。これは「ひきこもり」「オタク」も同様です。
ところが現在におきましては、「ニート」「ひきこもり」「オタク」といった存在に対する蔑視、あるいは権力でもって規制すべき、教育すべき、といった見方が強い。そのような色眼鏡を取り外すために、確かに統計と言説の乖離を批判することは重要です。しかしそれは第1段階で、第2段階としてはさらに相手の思想的根本を突き崩していくことこそ必要なのですが、それがなかなか難しい。


macska
 それは、わたしがミーガン法の議論で感じたことに近いかな。性犯罪者の再犯率は言われるほど高くないとか、ミーガン法の効果は認められていないとか、そういうデータを挙げて反対論を主張したわけですが、本当に言いたかったことはそんなことではない。ミーガン法に思想的に反対であったものの、とりあえず有効な論理としてデータをまず先にあげた。まず色眼鏡を外して冷静に議論を聞いてもらえないといけないですからね。


chiki
 私が「ジェンダーフリーとは」で感じたこととも近いですね。macska さんと普段からチャットしていて、マチュカさんは先に倫理ありきの方だと思っていますが、しかし「倫理的な言説」は残念ながら「効果」を生まないことがある。そのことに対する断念と再出発からの徹底的な理論構築と実践があるということですね。


後藤
 そして3番目ですが、それは自分も常々思っていることです。自分としては単純な「反論」だけでは自分のスタンスを保つことはできないでしょう。ただし過去に、既に本を出してしまっているのですから、もう後には引けない、変節するならするで理由を開示しなければならない。とりあえず「最初にデータ、次に思想的な話」というのは有効な先述であるとは私は思っています。だからこそデータが必要なのですが、最近ではデータでも色眼鏡を外すそぶりを見せなくなっている。つまり「情報」以前での戦いが必要なのではないかな…とも思っています。


chiki
 しかし、多くの人はデータのところなんてすっ飛ばして都合のよいところだけ読みますからね。


後藤
 だから相手の知性を信じて、負ける戦いを続けなければならないと…、って、またこの話ですか。


macska
 最近も、「拒食症で人は滅多に死なない」だとか「アルコール依存症グループの Alcoholics Anonymous は効かない」とかデータを出して反発ばかり買ってます(笑)


後藤
 イメージと反するからでしょう。


chiki
 「万人に倫理を」というような戦略、あるいはあるユートピアを構築するような方法論だけではダメなので、むしろ逆にそういうものでないからと断念したり悔しがるのは万能感の裏返しであると気をつけたいですよね。言説や情報の綱引きはとても重要だと思いますよ。そのためには「乖離」を前提とするしかいないでしょうね。


後藤
 「これだけはわかって欲しいんだ」、という強い態度が必要なのかもしれない、と言うと精神論になりかねませんが。


macska
 基本的に、社会に何かを訴えるのであれば、「あなたにとってもお得ですよ」と訴えなくちゃ通じないですね。文字通りそう言うかどうかはともかく。


chiki
 うん。それを直接<その対象>にやらずともよいと。


後藤
 もう一つ、情報戦の難点としては、こちらが統計的に間違っている、と指摘しても、相手は「でもこんなに異常な奴が1人いるんだから「今時の若者」は異常なんだ」、と反撃してしまう。つまりこちらは定量的なデータを出しているけれども、相手はたった1人のイメージ(しかもそれは伝聞かもしれない)だけで世代全体のイメージを構築してしまう。相手にとっては、統計データや実証的な研究よりも「1人」のほうがイメージとして強く、しかもそこに固執してしまう。


macska
 3520件の実例もあるし。


後藤
 それは違うのではないかと…。


macska
 ごめん、冗談でした。


chiki
 あっはっは。
 でもそれも重要なところで、例えば「サイバーカスケード」の解説をコラムにいれたように、どれだけ実際のデータが集められても、論争相手に反駁のロジック(それが間違っていたとしても)を集めてリアリティを構築していこうとする動き自体を静止させること自体は難しいわけです。例えば「ジェンダーフリーとは」に延々と反論(?)を加えることで自分のリアリティに固着する人が現にネット上に多くいますし、本書で斉藤環さんが仰っているようにその「エヴィデンス」への固着はUFO話や幽霊譚のそれに近いので説得は厳しい。しかし、「ある空間において、ある言説を無効化する」ということは可能ではありますよね。例えばアカデミックの領域でバックラッシュ的なこと(ex:男女共同参画は国連による共産主義革命だ!)をいえば、まっとうな議論の場であれば爆笑されます。あるいは、もし私がもう少し早く「3520の実例」を実証的に批判したり、それに基づいて多くの方が抗議や意見を送ったり、あるいはそれが何か雑誌などに掲載されでもすれば、2005年の男女共同参画基本計画改定の時の様に、具体的にそれを使って基本計画を書き換えるというアクションくらいは防げたかもしれない。象徴闘争や表象をめぐる「つなひき」は、各地条例にも少なからずの影響を与えているので、カスケード自体が依然として残っていてもカスケードの意味づけを変えたりマッピングを変えたりすることだって出来るし、逆もまた起こりうるんですよ。


後藤
 この際、世代全体に対する権力的な抑圧と個人に対する対応は違うんだ、ということを示さなければならないと思います。教育基本法改悪反対を叫びつつ俗流若者論を展開する、と言う一貫性どこ吹く風の論理はあふれているのに、例えば「少年法の厳罰化に反対する」ということと「光市母子殺害事件の犯人は死刑にされるべきだ」と言うことが別問題であることは気にとめない人が多い。「全体に対する対応」と「個人に対する対応」は一貫性を持たなければならない、と変に思ってしまっている人が、特に左派においては多い。


chiki
 そうですね。そこで最初の宮台さんの話に戻りそうですが、いかがですか?


後藤
 最初の話を少々忘却してしまいましたので、もう一度論点の整理をお願いします。


chiki
 はい。後藤さんは宮台さんの言説に対して俗流若者論の匂いを感じ取り、距離感を覚えると表明された。私は後藤さんが宮台さんをどう「理解」しながら実践を行っていくのかに興味があり、一連の質問をさせていただいたと。その後、後藤さんの上げられたいくつかの点は「誤読」ではないかと指摘しつつ、むしろ宮台さんのレールと重なるところさえあるのではないかと問いかけています。そこで改めて、再度宮台さんへ違和をめぐって議論しながら、逆照射的に後藤さんの立場を明らかにできれば、と思ってのです。どうですか?


後藤
 なるほど。確かに私は誤読しているかもしれませんけれども、ただこれは宮台氏から少々はずれてしまうのですが、「地域共同体の空洞化」「生活世界の空洞化」ということが過度に強調されるようになると、かえって別の問題を生み出すことになってしまうのではないか。具体的に言いますと、「地域共同体の再生」という美名の下に、新たな不安扇動や不安共同体が形成されることです。


macska
 それは宮台誤読に基づくものだろうけれど、ありえない話じゃないですね


後藤
 「論座」はこの問題を何度か取り扱っています。平成18年2月号では芹沢一也氏、6月号では芹沢一也氏と安原宏美氏、8月号では大内悟史氏と東浩紀氏と高木浩光氏です。そちらを参照されるとなおいいのですが、私なりにまとめてみると、共同体に「親しめない」ひとが「犯罪者」「危険分子」として問題視されていくのではにか、と言うことです。
 具体的に言いますと、私は宮城県仙台市青葉区の郊外の団地に住んでおり、そこでは子供たちが遊んでいる姿は普通に見られます。しかし私は、外に出ると言ってもたいていは原付や母親の車を使いますし、家の近くを歩く、ということはあまりない、あるとしてもすぐにバス停やJRの駅に向かってしまう。さらに私は太っているので、端から見ればもしかしたら「アキバ系」に見られる可能性もなきにしもあらず。「アキバ系」=「性犯罪者」みたいな言説がはびこっている昨今(このような言説は全くの虚構なのですが)、私自身「排除」の対象になるのかもしれない。「論座」の記事では、たいていはマスコミによる不安扇動と情報技術の発達、そして親たち、もう少し広げて大人たちと言ってもいいですが、その「監視」願望(8月号の東浩紀氏と高木浩光氏の対談ですと「見守り」願望)の強化が不安共同体の醸成につながっている。


chiki
 うん。例えば「不審者」というロジックがありますが、「不審者」という言葉(ちなみにこの言葉、広辞苑に載ってないです)を、文字通り「審級のない者」と理解すると、すでに私たちの社会には「第三者の審級」(大澤真幸)が失われているため、非常にローカルな審級によって「不審」たる対象が名指しされる。閉じたコミュニティが各々好き勝手に「審」を設けあい、あるいは「第三者の審級」をめぐってのつばぜり合いが耐えなかったりする。そして同時に、そこでは既に「リスク」が計算可能なものとして認識されているので、各コミュニティがすべて=互いを「管理=監視」することへのオブセッシブ(強迫感)を加速する、と。但し、「監視」は共同体の機能的代替物、「第三者の審級」の機能的代替物でもあるので、単に肯定も否定も出来るものではなく、その先のプランニング(とそれをめぐる議論)が重要になってくる。宮台さんの場合、そこで「都市型保守」と「都市型リベラル」の問題設定が重要になってくるわけですね。


(スペースの都合上、チャットの残りはこちらへ続く