後藤和智『教育の罠と世代の罠――いわゆる「バックラッシュ」に関する言説の世代論からの考察――』紹介
こんにちは、みなさま。今回は本書『バックラッシュ!』から、後藤和智『教育の罠と世代の罠――いわゆる「バックラッシュ」に関する言説の世代論からの考察――』をご紹介します。後藤さんはBLOG「新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜」にて俗流若者論を批判的に検証している期待の論者で、今年の1月に本田由紀さんと内藤朝雄さんとの共著『「ニート」って言うな!』を出版されました。双風舎が後藤さんに声をかけさせていただいたのも同時期だったので、タッチの差でデビュー作を取られてしまいましたが(笑)、本書でも独自の視点からバックラッシュ言説を分析してくださっています。
では、以下に『教育の罠と世代の罠――いわゆる「バックラッシュ」に関する言説の世代論からの考察――』の出だしの部分をご紹介します。
■はじめに
本稿は、いわゆる「バックラッシュ」現象に関する考察ではあるが、「バックラッシュ」という現象の背景や、「バックラッシュ」側の論拠としている諸事象――たとえば「過激な性教育」の実態や、「バックラッシュ」言説の非科学性――は、すでにほかの論者が論じつくしているだろうから、ここでは触れないこととする。
私は、平成一六年一一月からウェブ上で青少年言説の検証をおこなっており、根拠が薄弱で、なおかつ若年層を過剰に蔑視するような言説を、「俗流若者論」として批判してきた。本稿においては、私の青少年言説に関する立場から、現在の「バックラッシュ」言説、こと「ジェンダーフリー教育」批判に関する検証をおこなっていくこととしよう。
なお、登場する人物の肩書きは、すべて執筆当時のものとする。
■我が国における教育言説空間
まずは、近年(平成一八年三月現在)の我が国における教育言説空間を考察するうえで、参照すべき議論を確認しよう。
たとえば、政策研究大学院大学教授の岡本薫氏は、海外との比較を通じて、我が国の教育言説の特徴を以下のように分析している(岡本薫[2006]、三七−四三頁)。いわく、《教育が理屈抜きで「好き」》、《教育の目的を「心」や「人格」に置く》、《教育について「平等」を求める》。そして、このような特徴が生み出したものとして、《学校に期待される役割が極めて大きい》、《学校教育への投資が大きい》、《教員の経済的・社会的地位が高い》、《教育が経済問題ではなく政治問題》などがあげられるという。これら指摘、とくに前半の、我が国における人びとの教育観に関する指摘は、そのまま我が国における通俗的な青少年言説に対しても有効である。
岡本氏の議論に付けくわえるならば、我が国の若者論においては「教育が『世代』をつくる」という考え方がかなり支配的に見える。ここでいう「教育」とは、たんに学校教育だけではなく、家庭における教育も含まれる。さらに、そのような考え方から、現代社会を語るうえでつねに「世代」が極めて重要な役割をはたしており、多くの論者が「最近の日本人」を語る場合は、概して「最近の若者」を語っている場合が多い(野村一夫[2005]にも同様の指摘が見られる)。
若者論に見られる典型的な表現として、若い世代が「おかしくなった」のは、教育が誤っていたからだ、というものがあげられよう。このような議論には、たとえば「ひきこもり」や(純粋に若年無業者や就業意欲喪失者という意味ではなく、マスコミがおもしろおかしく採り上げたがる存在としての)「ニート」を語るうえでも、若年層の受けた「教育」が「自立のたいせつさ」や「適切な職業観」を教えないからだ、と説くものは多い。また、少年犯罪、若年層の「問題行動」にも、このような議論は頻繁に見られる。そして、このような議論が共通して持っているのが、若年層は突如として「おかしくなってしまった」という認識である。
我が国において「教育」を語ることは、リスクも含めて「あるべき社会の姿」を語るのではなく、もっぱら「若い世代」を語り、そして「若い世代」にいかにして自分(とその仲間)の考えを共有させるか、ということが主として語られる傾向にある。このような議論の流行もまた、我が国において教育の目的が「心」や「人格」におかれていることと無関係ではないだろう。
もっとも、我が国におけるこのような教育観の広がりは、「教育」という概念が導入されてから現在にいたるまでの歴史的発展である、という見方もある。東京大学助教授の広田照幸氏は、我が国において「教育的」という美名の下に自分の言説を正当化するような動きが、すでに一九二〇年代から発生している、ということを説いている(広田照幸[2001]、二二−九二頁)。
■若者論としての「バックラッシュ」言説の検討
いわゆる「バックラッシュ」言説における「ジェンダーフリー教育」批判言説は、従来の(世俗的な)教育言説と同じように、「学校教育批判」と「家庭教育批判」のふたつの翼によって成り立っている。裏を返せば、若年層の「問題行動」の「原因」が「学校教育」と「家庭教育」に収束されており、それがはたして現代の若年層に特有のものであるのか、という問題意識や、あるいは社会階層や文化状況に関する考察を欠いているという問題を、「ジェンダーフリー教育」批判言説は持っているといえる。
例をあげてみよう。高崎経済大学助教授で「新しい歴史教科書をつくる会」会長(二〇〇五年当時)の八木秀次氏は、我が国において少子化が進行している原因を、以下のように述べている。少子化の主たる原因は男女共同参画社会が確立していないからではなく、若者、特に女性がフェミニズムの影響などを受けて結婚や出産・育児を生活水準の低下や自由の拘束とみなして厭うことにある。また公的機関の施策やマスコミの情報がそれを助長しているところにある。(八木秀次[2003a]、43ページ)
また、少子化対策として八木氏は《若者に結婚や出産・育児の喜びや意義を説くべく政府を挙げて教育・啓蒙する》(八木秀次[2003b])ことこそが重要であると考えている。八木氏によれば、現代の若年層の精神や思想のあり方こそが少子化と深くかかわっている、というのである。
もっと過激な意見を紹介しよう。脚本家の石堂淑朗氏は、《現在の話題を独占している国事問題と少子・不倫は実は我々の意識化で深く深く連動しているのである》(石堂淑朗[2002])と書く。そして石堂氏は、少子化を解決するためには徴兵制が必要だ、と説いている。このような論証立ては、はたから見れば「風が吹けば桶屋が儲かる」とでもいえそうなほど強引に見えるが、石堂氏は次のように述べている。戦地に赴く男だけが発散し得たフェロモンの消失、死を賭して国を護ろうと言う男の消滅が、この男の子供をどうあっても産みたいという根源的衝動を抹殺して少子現象を生んだ。死んで行く男への義理立てが無くなれば、続くのは女の貞操観念の消失と不倫の隆盛であることは必然である。
〈中略〉 自衛隊の国軍昇格、防衛庁の防衛省昇格など、徐々にマトモナ国家形態構築を目指す他無いがそうなれば、武人の誉れ高き青年も次々に出現、娘たちが、貴方の子が欲しい!と叫ぶ時代もやってくるだろう。(石堂淑朗[2002]、一九六・一九八頁)なぜ、石堂氏はかくも簡単に「徴兵制」を語ることができるのか、という問題を解きほぐすことについては、本題からそれてしまうため、本稿では置いておくこととする。ここで問題にしたいのは、石堂氏は《戦地に赴く男だけが発散し得たフェロモンの消失、死を賭して国を護ろうと言う男の消滅》(石堂、前掲書)が生じている我が国のみならず、先進諸国が戦後一貫して出生率が減少傾向にあることを無視している点である。
「ジェンダーフリー」バッシング言説のなかには、「ジェンダーフリー」が家族を壊し、その結果として脳を壊し、「いまどきの若者」に見られるような「問題行動」が多発するのだ、というものも根強く存在する。ジェンダーフリー式の教育をすると、実は脳が正常に育たない場合が少なくない。行動的、積極的に生きていくべき男の子は腑抜けで弱虫になりがちで、優しく優雅に生きていくべき女の子は粗暴で下品になってしまう。これは私の偏見でも何でもない。〈中略〉 最近の女の子たちは、ジェンダーフリー教育のお陰ですっかり下品になりましたね。これは街を歩いていればすぐ分かるでしょう。〈中略〉 だから、ジェンダーフリーで子供を育てると、こんな風に脳がおかしくなり、人格的にヘンなのが増えてくるんです(笑)。(林道義、冨田和巳、有村治子[2003]の、林道義氏の基調講演の部分)
『幼児教育と脳』(文春新書)を書いた澤口俊之・北大教授は、「思春期挫折症候群」という言葉で説明しているんですが、思考と判断能力の低下、自己中心的、責任転嫁、無気力、憂鬱、行動障害としてのルーズな生活、親への反抗や暴力、登校拒否、非行などは思春期になって現れるといっていますね。(林道義、高橋史朗[2003]における高橋史朗氏の発言)
このような言説は、現代の青少年問題の多くを「脳の問題」としてとらえる、現代の若者論におけるひとつのムーヴメントを前提として成り立っている(このようなムーヴメントのもっとも先鋭的な事例として、「ゲーム脳」論をあげることができるだろう)。ただ、高橋氏が引き合いに出している澤口俊之氏の理論に対しては、たとえば精神科医の斎藤環氏から疑念が提出されているし(斎藤環[2003]、一五〇−一五四頁)、林氏にいたっては、「偏見でも何でもない」と言いながらも、青少年に対する認識はたんに「井戸端会議」の領域を超えていない、ようするに偏見としか言いようがない。
それ以外にも、株式会社海外教育コンサルタンツ代表取締役の浅井宏純氏は、「ニート」を生み出した元凶としての戦後教育を批判する文脈で《男と女が同じだから、ひなまつりも鯉のぼりもやるなというジェンダーフリー教育は間違っています》(浅井宏純、森本和子[2005]三三−三四頁)と述べているし、ジャーナリストの桜井裕子氏にいたっては、《小学校二年生から三年間、絶対にスカートをはかない女の子》(桜井裕子[2005]、三二九頁)さえも《こうした教育(筆者注:「ジェンダーフリー教育」)が影を落としていることはおそらく間違いないところでしょう》(桜井、前掲、329ページ)などと述べている。
つづきは、双風舎『バックラッシュ!』でお読みください。面白そうだと思ったら、いますぐ予約だ! さて、明日火曜日は『デビューボの泉』第四回です。明日もこれまた大物の方がデビューボな発言を魅せてくれるはず。起こすぞデビューボ大戦争、円谷プロダクションで実写化だ!(ウソ)