『ポップ×フェミ』第6回 : 風刺漫画に登場した全米女性学会と「頭のいい組織的バックラッシュ」

 こんにちは、みなさま。常々口にしている通り毎週話題を考えるのに苦労するこの『ポップ×フェミ』ですが、今週に限ってはトピックが向こうから飛び込んできました。第3回でその様子をお届けした全米女性学会@オークランドについてですが、なんとあのコンファレンスを名指しでバッシングする風刺漫画が一般の新聞に掲載されたのです。女性学会が一般紙に登場すること自体滅多にないのに(わたしは見た事がない)、風刺漫画の対象となるとは非常に驚き。
 問題の漫画は、全米400紙を越える新聞に掲載されている Mallard Fillmore というコミックストリップの。作者のブルース・ティンズリーは保守的な政治姿勢で知られ、これまでにもリベラル派を批判したり嘲笑するような漫画を描いてきた。その Mallard Fillmore 欄に7月6日に掲載されたコミックが以下のものだ。


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 書き込まれている文章を訳すと、「保守的な考えの女性はオークランドで開かれた『全国女性学コンファレンス』でちっとも歓迎されなかった。潜入しようとした少数の勇敢な人たちはすぐに発見されてしまった。どうやら彼女たちが実際に女性の容姿をしていたことが原因の一部らしい。」 その文章に合わせて、中性的な容姿の人が「入るな」と書かれた看板の横で手を組んで保守主義の参加者を拒もうとしている。(その横にいるアヒルみたいなキャラは何かというと、Mallard Fillmore のメインキャラでニュースキャスターという設定。つまりこの文章はニュースの一部としてこのアヒルが読んでいることになる。)
 さて「保守的な考えの女性は歓迎されなかった」という部分をよく見ると、「情報源」として Network of Enlightened Women のカリン・アグネスという人が参照されている。しかし Network of Enlightened Womenって一体何なのか。ヴァージニア大学の学生がはじめたこの団体は、保守派の女子学生の教育と指導力養成、そして大学キャンパスにおける「政治的意見の多様性」を主張している。かれらによると、大学ではリベラルな風潮が強すぎて保守派の学生は授業や課外活動などでほとんど意見を口にすることができない。そうした状態を改め、保守主義を堂々と主張できるような環境を整えることが「政治的意見の多様性」だというのだ。「女性の教育と指導力養成」「多様性の尊重」といったリベラルな用語を使いながら、保守派こそが迫害されたマイノリティだとするこうした運動は、最近各地の大学で広まってはいる。
 今回の騒動の発端は、全米女性学会で保守派学生にどう対処すべきかという内容のワークショップが開かれることをアグネスが知ったことだ。せっかくなら保守派の女子学生と対話すべきだと手紙を出したところ、女性学会が規則を盾に拒否したとして、アグネスは「女性学会からは保守派が排除されている」とコラムに書いた。規則を盾にというのは、コンファレンスでの発表はそもそも女性学会のメンバーにしか認められておらず、また発表を希望する人は期日までにプロポーザル(発表趣旨提案)を書いて申し込み、価値があるとみとめられなければ発表できない決まりだから。アグネスが手紙を出した時点では既にプロポーザルは締め切られており、コンファレンスの全日程は確定していた。もちろん、ちゃんとしたメンバーですら時間と空間の制約から発表の場を与えられないことが多いのだから、保守系団体だけ特別扱いされないのは当たり前(ちなみに、誰でも入会は可能で、入会費が払えない人には免除の規定もある)。それを「思想により排除された、差別された」と言うのはいくらなんでも無茶だ。従ってコミックでの描写も不当だと思える。
 でも、仮にアグネスが女性学会に入会して締め切り前にプロポーザルを提出していたとしたら、はたして受け入れられていただろうか。仮定の話をしても仕方がないとは思うのだけれど、やっぱり認められなかったような気がする。それで良いのかどうか。
 一般論としては、学問的な会合において発表を認めるかどうかはその研究なり主張の学問的価値の是非によって決まるべきであり、結論が会員の多数にとって都合が良いかどうかで決めてはいけないに決まっている。もちろんそれは女性学会でも分かっているはずだが、しかし根本から女性学の存在そのものに敵対的な部外者にまで発言を認める必要はないという主張もあるだろう。ところがこうした系統の学生団体はそのあたりも周到で、決して「女性学を無くせ」とは言わない。女性学をフェミニストの学生にも保守的な学生にも平等なものにせよと要求しているのだ。これはまるで生物学者に「進化論と創造論と対等に扱え」というようなものだけれども、女性学には生物学ほど絶対的な方法論を持たない(複数の方法論の共存を認める)ために、女性学本来の目的に反するような主張であっても排除を正当化しづらい。
 逆に「何を恐れているのだ、女性学会に呼んで堂々と対話すればいいじゃないか」という意見もあるだろうけれど、ことはそう簡単ではない。というのも、こうした「保守主義」を掲げる学生団体が、学生たち自身を主体としているのではなく外部の保守系シンクタンクなどが大金を注ぎ込んで作り上げた傀儡であることが多々あるからだ。この場合、学生たち自身は宣伝のために雇われた広告業者のようなものであり、まともに相手をすればさらに増長するだけで全く対話が成り立たない。保守的な意見の持ち主であるだけならそれだけで済むが、中には教員のクラス内外での発言が政治的に偏向していないかチェックして糾弾するという活動をするところもあり、各地で学問的自由に対する重大な脅威となっている。
 問題は、ちょっと「反抗的」な相手がいたとして、かれらが傀儡なのかどうか判別し辛いことだ。例えば、フェミニストを自称する学者の中に男性ならばとても口に出せないような酷い「女性蔑視」発言やフェミニズム攻撃を連発する人が何人かいて、かれらは保守系シンクタンクから多額の研究費を受け取り、また保守系メディアにコラムを書いたり出演したりして多額の報酬を得ている。もちろん彼女たちはお金を得るために保守派の「ふりをしている」わけではないだろう。けれど、彼女たちと率直に意見をぶつけ合えばどこかで妥協点を見出せるか、相互に分かり合えるかというと、多分無理だろうと思わざるを得ない。彼女たちは、極右的であることだけが存在意義なのだから。もし相手にするなら討論会のような形にして徹底的に計算づくの発言に徹するのが得策で、下手に真摯な「対話」をしようとするのは先に述べたように危険。
 しかし一方には、新世代が旧世代のフェミニズムの中でずっと受け入れられてきた根本的な前提や大きな合意事項に批判的なことを主張するということは多々ある。そして、かれらの批判に真摯に向き合わないようではフェミニズムに未来はないだろう。しかし、耳に痛いことを聞かずに済ませたい学者たちが、こうした「反抗的な」フェミニストたちを「敵の傀儡」と誤認して対話を拒絶するということもよくある。アメリカのフェミニズム業界で最もその被害を受けたのは、デートレイプや性感染症の問題で「性道徳」や自己管理の重要さを主張して多数のフェミニストたちから袋だたきの批判に晒されたケイティ・ロイフィ(著書に「The Morning After: Sex, Fear and Feminism」「Last Night In Paradise: Sex and Morals at the Century's End」など)だろうけれど、そういえば日本でも以前から対立していたある『バックラッシュ!』執筆者のことを「フェミニズムを誤解している」と決めつけた某学会理事もいたっけ。
 このように、大学を舞台とした比較的「頭のいい組織的バックラッシュ」への応対は政治的にも学問的にも非常に悩ましい問題だが、個人的な願いを言うならば、仮に敵対勢力につけ込まれる危険を多少おかしてでも内部の風通しの良さをできるだけ残しておいて欲しいと思っている。学問的自由を守るためという口実で自分たちの言動を縛るようになってしまっては、既に負けているようなものだもの。


 そんなわけで、見るからに風通しのいい会社、双風舎の『バックラッシュ』をよろしく。じゃないと帳簿に穴があいて風通しがさらに良くなってしまいます(ウソ)