『ポップ×フェミ』第2回 :『ヴァギナ・モノローグ』に見る欧米フェミニズムの限界

 早速ネタが枯渇しかけているこの『ポップ×フェミ』、今回はイヴ・エンスラー作の戯曲『ヴァギナ・モノローグ』(公演上のタイトルは『ザ・ヴァギナ・モノローグス』)について。「ヴァギナのことが心配」と始まり、様々な女性がヴァギナに関する体験を語るこの演劇は、エンスラー氏が多数の女性にインタビューして綴った様々なモノローグの集大成。日本でも2004年以降何度か英語と日本語訳で公演がされている。
 フェミニストによる演劇は数あれど、この作品ほどハリウッドの有名女優や女性政治家などを巻き込んだものはなかった。女性器の名前を堂々とステージの上で口にすることでタブーを破っただけでなく、女性への暴力を糾弾する内容も評価を受けた。また、収益金を女性への暴力に抵抗する団体に寄付することを条件に各地の大学がこの演劇を使用料なしで公演できるようにしたことで、単なる演劇という枠を越えたフェミニズムの実践としても大成功をおさめたと言っていい。
 しかし残念なことに、この演劇には欧米のフェミニズムに対して以前から指摘されてきた問題が何の反省もなくそのまま温存されている。それはすなわち、非西欧の女性の経験を西欧のフェミニズムがどのように表象するかという問題だ。
 例えば、「ヴァギナ・モノローグ」はタイトルの通りモノローグをたくさん集めた演劇だけれど、一カ所だけトーンが全く違う部分が存在する。それは、アフリカにおいて今も残る女性器切除についての部分。ほかの部分はすべて「モノローグ」で成り立っているのに、ここだけ新聞記事か医学論文の切り抜きのような文体で、女性器切除の被害を受けた女性の人数がどれだけなのか、その弊害はいかなるものかということが淡々と語られる。
 初版の「ヴァギナ・モノローグ」にはボスニア紛争においてセルビア民兵にレイプされたボスニア人女性のモノローグも含まれているけれど、そのモノローグのタイトルは「わたしのヴァギナはわたしの村」。国土の安寧と女性の貞操を重ね合わせるナショナリスティックなメタファーが無批判に利用されている点は別としても、ここでも女性器切除の箇所と同じように非西欧系女性の被害が淡々と語られる。
 その後も2002年にアフガン女性のモノローグ、2006年に韓国人元慰安婦のモノローグが追加されるなど非西欧系女性のモノローグは増える一方なのだけれど、どれも同じパターンが見られる。複雑な内面を持つ存在として描かれる欧米の女性のモノローグと比べ、非西欧の女性は野蛮な非西欧系男性による暴力の一方的な被害者としてのみ描写されており、非常に一面的だ。そして、彼女たち「かわいそうな声無き女性たち」を支援する善意の存在として欧米のフェミニストたちが配置されている。
 エンスラーが「女性に対する暴力を無くす」という目的を掲げて立ち上げた団体、V-DAY もこの問題点をそのまま継承している。今年はアフガン女性、今年はイラクの女性、今年は元慰安婦という具合に次々に「かわいそうな被害者」として非白人の女性を祭り上げて利用するだけでなく、その強大な資金力でアフガニスタンに乗り込んで現地のフェミニストたちにあれこれ指図をしているという批判も聞かれるし、米国の先住民女性を守るためと称して連邦政府が先住民部族の持つ自治権を侵害するのを奨励したりもしている。
 フェミニズムの国際的な連帯ということであれば、10年ほど前に女性器切除の風習が一気に国際的な問題として注目を浴びた時期があって、その時に先進国の女性団体がいろいろ間違いをおかしてしまったという重要な教訓があったはず。それなのに、V-DAY はそこから何かを学んだ様子が全くない。
 結局、エンスラーは「女性への暴力を廃絶する」という考えが先走るあまり、対象とする範囲を広げ過ぎたように思う。自分の周囲の女性たちのモノローグを収集しているうちは良かったけれども、非西欧の女性も含めようとした途端に「女性」という切り口だけでは不十分となることに気付かなかったのではないか。フェミ的な演劇でこれほど成功した例はほかにないというのに、こんなに重大な問題が問題と認識すらされずに放置されているのは非常に残念に思う。先進国のフェミニズムがまた国際的な評判を落とすのは、まぁ自業自得だから仕方がないけれど。


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