「ジェンダーフリーは性差をなくそうとするのか」/「フェミニストは生物学的性差を無視しているか」 

 みなさま、こんにちは。毎週金曜日は macska による連載の日ですが、作者取材のため…じゃなくて、 macska 出張で不在のため、本日は本書に掲載されているコラムをご紹介します。『バックラッシュ!』には、ジェンダーフリーをめぐる論点について解説するコラムが含まれています。本日は、その中から「ジェンダーフリーは性差をなくそうとするのか」と「フェミニストは生物学的性差を無視しているか」をご紹介します。

ジェンダーフリーは性差をなくそうとするのか】
 ジェンダーフリー男女共同参画行政へのレッテルとして、「男女の性差を認めない」「男女の性差を画一化しようとしている」「中性化しようとしている」という批判がある。しかし、これらはまったくの誤解で、実際はむしろ逆。ジェンダーフリーをスローガンとして掲げている人は、ジェンダーレス(性差否定)を目指しているのではなく、性別によって何かしらの不当な制限や差別をされることなく、多様な個性を選択、発揮できる状態を目指している。また、フェミニズムは「男並み」にならねば社会に認められない状態を、むしろ批判してきた運動だといえる。
 また、男女共同参画社会とは、男女に関わらず社会に参加し、計画できる社会のことを意味している。それぞれ微妙に意味は異なるが、共通しているのは「いろいろあってもいいだろう」とはいっても、「画一的にいこう」とはいっていないということだ。むろん、個人が「男らしさ」や「女らしさ」を目指すのは自由。ただし、その場合の「らしさ」の定義も、すでに多様化していることはお忘れなく。
 さて、このようなスタンスと、「男は男らしく!女は女らしく!」というのと、どちらが画一的な価値観を押し付けるメッセージ見えるだろうか。


フェミニストは生物学的性差を無視しているか】
 無視してません。以上。
 ……で済む話なのだが、あまりにこの手の批判が多いので詳述しておこう。これが単純に「男と女の体は違うことをフェミニストは知らないのか」というレベルの話なら、自分のなかでのフェミニストのイメージとシャドウボクシングしているだけで、相手を見くびりすぎだと思う。
 フェミニズムの議論のなかで、「ジェンダーがセックスを規定する」「セックスも社会によって構築されたもの」という言いまわしをすることがある。これを、生物学的性差は幻想であり、事後的にいくらでも変更可能なのだという主張としてとらえることは間違いだ。あるいは、氏か育ちかという問いに対して、「育ち」の優位性や万能性をとなえるものでもない。「ジェンダーがセックスを規定する」という言葉をやさしく言い換えれば、わたしたちが身体について抱く認識は、つねに文化的・社会的なものであるということだ。それは何も、認識の外側に実際の身体(そして身体的差異)が存在しないということではない。いかなる身体的な差異も、文化的・社会的なフィルタをとおしてしか人びとには認識されないということをいっているのだ。ここはテストに出るかもしれないゾ!


macska 先生と chiki 先生のコラムが読めるのは『バックラッシュ!』だけ! 第二のゆで氏とたまご氏に応援のお葉書を送ろう!(ウソ)