『ポップ×フェミ』第4回 : 『ベッカムに恋して』と『Real Women Have Curves』に見る移民二世のディレンマ

 こんにちは、みなさま。前回「女性学会ってポップなのか?」という疑問をはね除けて全米女性学会からのレポートをお届けしましたが、今回はもうちょっとポップにいこうと思います。ワールドカップも決勝トーナメントに移り好マッチの連続となっていますが、サッカー繋がりで今回は2002年のイギリス映画「Bend It Like Beckham」(邦題「ベッカムに恋して」)から入っていきます。日本でも2003年に少数ながら全国の劇場で公開され、ビデオや DVD でも発売されているようなのでご覧になった人も多いはず。一応注意しておきますが、ネタバレします。
 インド系女性の手によるこの映画の主人公は、シーク教の伝統を守るインド移民の家族とともにイギリスに住む高校生のジェス。サッカーが大好きで、部屋にはデーヴィッド・ベッカムミア・ハムアメリカの女子サッカー選手)のポスターが張られ、公園では男の子たちと一緒にストリートサッカーを楽しんでいる。サッカーの才能を認められ地元のクラブに誘われるのだけれど、人前で太腿を晒して走り回ることを良しとしない両親はチームに加わることを認めない。
 コトは単にうるさい家族がいるということでは済まない。ある時チームメイトの女の子と一緒にいるところをインド人コミュニティの人に目撃され、ショートヘアのチームメイトを男の子と勘違いされてしまったために「ジェスがイギリス人の男の子とデートしている」という噂が広まってしまう。そのために同じコミュニティの相手と結婚しようとしていた姉の縁談が流れてしまいそうになるくらいだから、反抗するのも大変だ。ジェスは両親も姉もコミュニティも愛していて、決してかれらを傷つけたくはないのだから。
 それでも彼女は家族が外出する時に仮病を使ったり友達のところに泊まっているなどと嘘をついてチームの試合に参加する。もともと才能のある彼女は試合でも活躍を続け、ついにチームは決勝に進出する。また、決勝には女子サッカーがさかんなアメリカからスカウトが来ており、結果によっては留学の機会も与えられると知らされる。しかしその日は姉の結婚式当日。親戚やコミュニティの人たちが大勢集まる場に彼女が出席しないということはとても考えられない。
 試合に出ることがどれだけ自分にとって大切なことか、ついに父親に直訴するジェス。父親も実は昔サッカー選手で、インドから移民した頃はかなりの実力があったのだけれど、イギリスでは人種を理由にどのクラブにも入れてもらえなかった。かれがジェスのサッカー熱をよく思っていなかったのは、実はその経験と無関係ではなかった。彼女にはかつての自分のようにサッカーに,イギリス人たちに過剰な期待をして裏切られ、傷つけられてほしくない。けれどジェスの熱意を知った父親は、彼女が自分なりに幸せを追い求め、そしてそれに傷つけば帰ってくればいいのだと悟り、ついに試合参加の許可を出す。はじめて家族に何の隠し事もせずにプレイできたジェスは大活躍し、アメリカ行きのオファーも与えられる。
 ここまで書けば分かる通り、「ベッカムに恋して」という邦題はかなりミスマッチ。ジェスはベッカムを選手として尊敬し憧れているけれども、それは恋とは違う。彼女が劇中で恋するのは(そしてそれが理由でチームメイトの親友と喧嘩するのは)チームのコーチを務める若い男性だ。でも実際にベッカムに恋している登場人物はいて、それは彼女の親戚のどうやらゲイらしい男の子。かれはジェスだけにこう告白する。「ぼく、ベッカムが好きなんだ」「ベッカムならみんな大好きでしょ」「いやそうじゃなくて、好きなんだ…」。
 試合を終えて急遽結婚式に戻ったジェスはアメリカに行ってサッカーを続けたいと願うけれど、家族は到底理解してくれそうもない。そこでベッカムに恋するこの男の子がこう言う。「みなさん、ぼくとジェスの婚約を認めてください。そしてその条件として、彼女が自分の思うような大学教育を受けたあとで結婚します。」 サッカーにかけるジェスの思いを知ったかれの名案だったのだけれど、ジェスはそれを拒絶する。「もう家族に嘘をついてサッカーをしたくない、今日は父から許可を得ていたからすっごく気持ちよくプレーできた。これからも堂々とサッカーをやらせて欲しい。」
 最後には熱意が通じてハッピーエンド。親友とも仲直りしてコーチとの恋愛もどうやら認めてもらえそうな雰囲気で、こんなに何もかも彼女の思い通りになっていいんだろうかという気がするのだけれど、イギリス生まれの移民二世が伝統や親族のしがらみと格闘しながら、それを一方的に拒絶するのではなく折り合いを付けつつ自分なりの新しい生き方を模索する様子を描いた映画として好感を抱いた。
 この「ベッカムに恋して」とよく似たテーマを題材としながら、より現実的かつ深みのある描写に成功しているのが「Real Women Have Curves」(2002年アメリカ)という映画だ。こちらの主人公はロスアンヘレス(ロスアンジェルス)に住むチカーナ(メキシコ系)移民二世のアナ。成績優秀で有名大学への進学を勧められるのだけれど、家族に負担をかけられないことを理由に諦めている。特にやりたい事も見つからず、とりあえず姉が経営する工場の手伝いを始める。
 姉の工場というのは、服の裁縫工房。冷房もなく暑苦しい部屋の中で10人くらいのメキシコ系の女性が生地を切りミシンを踏んでたくさんの服を作っている。ここで作る服は一着7ドルで店に売られ、それに店は100ドル以上もの値段をつけて売っている。「こんなのスウェットショップじゃない」と反発するアナ。工場で一緒に働く母は、ある日突然「妊娠した」と騒いでアナに付き添わせて医者に行ったり、アナにやたらと「もっと痩せなさい」と言い聞かせたりで、二言目には「だってあなたそんなんじゃ結婚できないでしょ」。アメリカのリベラルな教育を受けてきて権利だとか自由を信じているアナからみると、全てが保守的で遅れている。
 そんな彼女が家族を受け入れるきっかけは、姉の工場の資金繰りが悪化して電気が止められそうになったこと。電気が止められてしまっては服も作れなくなり、それは姉の小さな事業の倒産を意味する。なんとか工場を存続させようと奔走する姉に付き添い、取り引き先に頭を下げ侮辱を甘んじて受ける姉を見るうちに、アナは世の中が教科書通りでないことや、そんな不公平な世の中で家族が必死になって生活していることを実感する。そして彼女は工場ではたらく他の女たちと意思を疎通することになる。
 なんとか閉鎖は免れたとはいえ、それでも暑くて苦しい工場。ある日アナは、暑さに耐えかねてシャツを脱ぎ、下着だけの格好になる。「そんな太ったからだを見せるなんて」と慌てる母。「いいじゃん、みんな女同士なんだから」と答えるアナ。工場内の他の女性はアナに習って次々に服を脱ぎ、下着姿で自分たちの体のふくやかな部分の自慢をはじめる。アナの母はアナが起こした小さな革命に驚愕するばかり。
 彼女たちが毎日汗水垂らして縫っている高級女性服は、サイズが小さすぎて彼女たちには着ることすらできない。でもそれは彼女たちが悪いんじゃない、服のほうがおかしいんだ、だって「実際の女性のからだには、いろいろなカーブが描かれているんだもの」ーー。ここでアナは自分が受けてきたリベラルな教育を、はじめて工場で働くメキシコ系女性たちの現実と重ね合わせるようになる。
 「ベッカムに恋して」のジェスに同じく、アナにも彼女の置かれた状況をよく理解できない白人中流階級のボーイフレンドができるが、位置づけが随分と違う。「ぼくたち、なんでも周囲から与えられてきたから、しばらくヨーロッパでも(親の金で)旅行してみたいね」と語るかれに、はじめアナは言葉にし難い反感を覚えていたのだけれど、婚前のセックスは倫理的に駄目だとかすぐ妊娠して困ると騒ぐ母への反発からか、アナはかれとデートする。コンドームを自分で買い、かれに使わせて一度だけのセックスをするアナ。「大学に行っても電話するよ」と言うかれに、「お互い卒業したら離ればなれだから、自由にした方がいい」とすぐに別れる。母の言いつけを無視するわけでも伝統を拒絶するわけでもないけれど、自分なりの生き方を歩み出す象徴的なシーンだ。
 アナが姉や工場の女たちに歩み寄ると同時に、かれらもアナに歩み寄る。姉が、父親が、アナが奨学金東海岸の大学に行くことを支持し、最後まで抵抗する母をも押し切るのだ。ところがアナが出発する日になって母は寝室に内側から鍵をかけて出て来ない。「お母さん、こんな形で行くのは嫌だよ、見送ってよ」とドアを通して声をかけるのだけれど、母は答えようとしない。やがて「もう今すぐ出発しないと間に合わないよ」と言われて家を出るアナ。母はゆっくり走り去る車を、窓のカーテンを少し開けて見つめるだけ。
 最後のシーンはニューヨークの地下鉄から街に出てくるアナ。母が窓から車を見送るシーンから最後までずっと無言で音楽だけが流れる演出は、笑顔で空港で両親に手を振るシーンで終わった「ベッカムに恋して」に比べてなにかとても重いものを感じる。ジェスが本気で家族に向き合って和解を得たのに対し、アナは姉や工場の女たちとは和解できたけれども母との溝を埋めることはできなかった。そこには移民一世と二世のあいだの断絶が描写されている。そしてその分、アナの行動には彼女なりの決意が感じられる。
 もちろん、彼女は大学に行くだけなのだから、一学期目が終わればクリスマス休暇に帰郷できるわけだし、母だってずっと部屋に閉じこもるわけじゃないと思う。フィクションの続きをあれこれ想像しても仕方がないけれど、きっとクリスマスに帰ってくる頃までにはアナと彼女の母親は和解しているーーそれが「最近の若い子は分からんね」みたいなものでもいいからーーと願いたい。
 独自のアイデンティティを守るか、それとも社会のメインストリームに同化するかという問いは、移民やその子孫にとって切実な問題だ。そしてそれらが対立する概念だとされている限り、前者を選んでは排斥・差別され、かといって後者を選ぼうにもいつまでたっても完全に対等な社会の一員とはみなされないというディレンマから自由になれない。ジェスとアナのストーリーは、そういうディレンマに置かれた才能ある若い女の子たちが、家族やコミュニティへの愛と自分らしい生き方をどのように両立させるかを追い求めた話であり、普遍性があると思う。残念ながら日本では「Real Women Have Curves」は入手困難なようだけれど、とてもいい映画なのでどこかの映画祭で紹介してくれないかな。


 さて、明日公開のコンテンツは以前告知した「行き過ぎたジェンフリ」都市伝説コンテストの優秀作発表です。ただし、まことに申し訳ありませんがアマゾンに予約した地方在住の人がそれを読めるのは来週になります(ウソ)


【追記】
 ついでだけれど「ベッカムに恋して」の日本語の感想をウェブで見て気付いたこと。試合中にジェスが「パキ」と呼ばれて激怒するシーンがあり、日本語字幕ではおそらく「パキスタン人」と訳されていたのだと思うけれど、「なるほどインド人はパキスタン人と呼ばれることをそんなに嫌うのか」という感想がいくつかあった。でも「パキ」というのはただ単に「パキスタン人」という意味じゃなくて、南アジア人全般に対する侮辱語。特にイギリスでは南アジア系移民に対するバッシングのキーワードとして使われている。差別者にとっては、対象がインド人なのかパキスタン人なのかなんて区別していない。
 だからジェスは「パキスタン人」と呼ばれたことに怒ったんじゃなくて、南アジア人として侮辱語で呼ばれたことに怒っているわけ。トランスジェンダーバイセクシュアルの人が「ホモ」と呼ばれて怒るとしたら、それは同性愛者と間違われたことに怒っているんじゃなくて(それもあるかもしれないけど)、それが侮辱語だからでしょ。
 ちなみに、試合後「あなたにはそれがどれだけ酷い言葉だか分からないでしょ」と言うジェスをなだめようとコーチが「分かるさ、僕だってアイルランド系だから」と言っているけど、非常に疑問。普通そんなこと言われたら「やっぱり分かっていない」と余計に怒るよ。「たしかに僕には分からないかもしれない、でも君が傷ついているのはよく分かったよ」と言えたら良かったのに。